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「このメールは総合火力演習後、著書から頂いたメールである。」

 自衛隊の諸君は、当然のことですが実戦の経験はありません。
演習はそれなりの効果は果たせたと思います。
貴君のいうとおりいざと言う時にも死を賭して戦ってくれることを信じます。
私の過去を振り返ってみますと、久留米第一陸軍予備士官学校で
将校教育を受けている時、何回も演習をやりました。
 飛行機、戦車との合同演習もやりましたが、
所詮は弾丸の飛んで来ない演習ですから本当の実感は湧きませんね。
 
 実際の戦場に赴任して、改めて敵の飛行機の爆音が聞こえるジャングルで
将校教育を受けた時初めて実戦に近い演習をやった気がしました。

 内地での演習はおおむね大陸戦を想定したものですから
我々新米将校にジャングルでの指揮法や心構えが必要だったのです。
もっとも内地でジャングル戦の訓練をやるところも無いですがね。いい勉強になりました。
その時の教官は、私と同年配の陸士出の少尉でした。のちには大尉になりましたが、
フィリッピンでバターン攻略戦を経験していましたからジャングル戦は経験していました。
 私が第一大隊長の副官をしていた時彼は中隊長で、
           
           ともにマーカス岬の戦場で戦いました。

 その名は酒井大尉。今でも福岡で健在のようです。
今実戦の経験云々といっても平和な日本では通用しませんが、
若い政治屋がイラクに自衛隊を派遣するしないで
議論をやっても空理空論の域を脱しないのは止むをえませんね。
 「演習」みたいなものですな。

  

 

<イラクにしても何処にしても派遣が決まり、
 部隊を送る時の映像は見るに耐えないものがある。
 反対~反対~!ってところが大きく取り上げられ薀蓄を語る人物が出てくる。
 送る側の家族の気持ちなどそっちのけなのである。
 滑稽に見える事が余りにも繰り返されている感あり。
 口に出して言わないけれど、このように思う人は多くいるようだ。
 核武装にしても我が国は世界唯一の被爆国である。
 近隣諸国は躍起になって核開発を進める中、我が国だけが持っていない。 
 持っていなければ平和になるのだろうか?? by Switch-blade>
 
   
# by switch-blade | 2004-10-02 13:00 | 第二十一話~第三十話 | Trackback | Comments(0)

 今村閣下の偉大さを伝える韮崎市の謹慎伏屋は観る価値があるでしょう。
なんといっても部下と苦楽を共にすべく、牢獄から進んでマヌス島に志願して赴き、
刑をまっとうした閣下の人格が偲ばれる事です。
刑を終わってからもこの謹慎室に籠って亡き戦友に想いを致し、
文筆中崩れるように一生を終えたそうです

このような立派な将軍に勝利の女神が来てくれなかったことは残念ですね。

 陸大同期に陸士先輩の東條大将がいますが、どうどうの首席で卒業し、
ご前講演をやられたという実績は、大将の面目躍如たるものがあります。
陸士の歴史の中で幼年学校卆が全くいないというのも
今村さんの期だけという事に、なにか因縁めいたものを感じます。
13~14歳の幼年学校から軍事教育を受けたものより、
むしろ高い見地から判断出来る素養が身についていたのではと思います。
このような立派な軍司令官のもとで戦闘できたことも光栄に思っています。


 このように書かれたメールを頂いた。


 
 <死線を潜り抜け生還した人間がそれでも慕う人物とは、
 一体どのような人物だったのだろうか?

 現代では余り考えられない事なのではないだろうか?
 現代人はいとも簡単に人を恨み、妬み、殺す。
 部下を思うということは生半可では出来ない事と思う。
 そして上を慕う事も大切な事だが、こちらも生半可では出来ない事だ。
 筋の通った生き方をしない限り、中途半端で終わってしまうのではないか?
 お互いにね。と、考えてしまう。

  それにしても今村将軍に関する書物は読めば読むほどのめりこんでしまう>
                            by Switch-Blade

 

 

  
# by Switch-Blade | 2004-09-30 00:00 | 第二十一話~第三十話 | Trackback | Comments(0)

 幹部候補生の時の軍曹は、「軍曹の階級を与う」というもので、
兵隊から長い経験を経て軍曹に進級した者と区別されます。
二等兵から軍曹になるには五年以上は掛かるでしょう。
ただし、士官候補者の試験に合格したものは早く進級します。現役ですから。
我々幹部候補生の場合は、
予備士官学校在校中 見習士官(曹長の階級)になるまでの過程での階級です
 一気に見習士官と言うわけには行きませんからね。
階級章の脇に丸い座金に星があるでしょう。これが幹部候補生の「シルシ」で

       「誇りでした」
 士官候補生は(陸士出身者)は星だけです。
在校中は両側に座金、卒業して見習士官になって原隊に帰るとき、
右側が63の数字に変わります。(そう、私の場合西部63部隊でしたからね。)
           「誇り高い気分」でしたね。
 4箇所の連隊から派遣された幹部候補生は、皆 見習士官になり、
軍刀をさげて連絡線に乗り関門海峡を渡って
それぞれの原隊に「凱旋」?して行ったのです。

この誇り高い気分は現代人には経験出来ませんし理解も出来ないのでは?
要するに当時の若者で、誰もがなれるものではない「格好のいい憧れの姿」であったからです。

 ですから、日曜日に外出した時など「もてました」ね!!ハハハハ(^^)
b0020455_5371995.jpg



    
かっこいいとはこういう事だな!と、思う今日この頃である。
それはただ単に軍隊に入隊するという事ではない事は勿論お分かりであろう。
それはその時代で異なるものと思うが、しかしながら共通する事が一つある。
それは、「どう生きるべきか?」 自分はこのように感じた。
それぞれの時代背景があるのだからね。
「なんとか楽して・・・」この言葉はまさに「愚の骨頂である」
     自分はこう感じた。
                            by Switch-Blade
 
# by switch-blade | 2004-09-26 05:49 | 第二十一話~第三十話 | Trackback | Comments(0)

      「転進」
 この言葉には常に嫌な思いにさせられます。

   <先程届いたメールの書き出しである>
 
 転進とは、一般に「退却」という意味に取られているからです。
「南海支隊」は、ポートモレスビーを目前にして弾薬、糧秝尽き、涙を飲んで撤退しました。
この行動を「転進」だと、悪く言われています。
我々は、マーカス岬の戦闘で「貴隊は最後まで当地を死守すべし」と
       玉砕命令を受けました。
ところが「カ号作戦」(ソロモン群島要地奪回作戦)が発動となり
「ラバウルに集結せよ」の命令が出ました。
その為玉砕を免れ、ラバウルまでの血の滲む転進が開始されたのです。
勿論、前線を離脱したからといって「退却」でもありません。
しかし「転進」という言葉を使っています。

 現在、嫌戦の輩は、旧日本軍の作戦変更の「戦線移動」を
全て退却を意味する十把ひとからげの表現を用いています。
つまり、転進=撤退=退却 となってしまいました。
情けない思いです・・・
当時の大和魂で固まった日本軍が「退却」などは考えられませんでした。

 

 <簡単に公を重んじての結果敗戦に至ったから、個人を確立尊重しようといった
  安易な思考推進で生じる現在の諸事件にも関連しているなと感じたメールであった。>
 
  「外伝」 第二十四話 転進の事 完

 
# by switch-blade | 2004-09-24 15:03 | 第二十一話~第三十話 | Trackback | Comments(0)

なんと!

   今月、神奈川県の某海岸で旧帝国陸軍の戦車が発見されました。
現地の年配の方々によると終戦後に、他の車両と共に埋められたとの事です。
発見した方もさぞや驚いた事でしょう。
余り人気のない海に海水浴に来て暫く遊んでいたら、
なんだこりゃ?

 車でもないし、トラクターでもないし、これって砲身じゃないの?
 こんな会話があったかも知れないね。

 この国には、一般には知られていない過去を消し去ろうとする言動が多くみられる。
              恥じているのか?
勝ち組、負け組みなんて言っているようじゃ駄目なんじゃないのか?と、自問自答する。
恥じているならば汚名挽回せよ!
人間の真価が発揮できるのはどん底を知ってからではないのか!

おおっと脱線・・・

さっきも「呑龍」の発見映像をやっていたけど、
元々陸軍には海を渡る航法技術はありませんから、
(陸軍は地図と照らし合わせた航行のみの教育ですからね。)
そのような機体でフィリピン周辺の作戦行動を実行しなければならないのは、
とても悲痛に感じると共に、なぜ今発見されたのか?
なにか運命?宿命?を、感じざるおえない。
b0020455_4415236.jpg

 正直言ってこんな映像は見たくはなかった!
三浦半島のきったない海で潮風に晒され、さび付いたチハをみるのは辛い。
物干し竿や、ビニール袋・・・・・

 まだまだ沢山眠っているのでしょうね。

画像参照
http://homepage3.nifty.com/muwsan/
# by switch-blade | 2004-09-24 04:46 | 「外伝」ニュース | Trackback | Comments(0)

 私たちの戦場(第八方面軍管轄)で一番偉かった人が、
在ラバウルの第八方面軍司令官 陸軍大将 今村 均です。

 私の属する部隊はその末端部隊であり、
私が専属副官をやっていたのは第65旅団(夏兵団)の長 真野五郎中将の時です。
方面軍の下には下部組織として 師団 独立旅団 など沢山ありました。
東部ニューギニア ニューブリテン島 ブーゲンビル島 ガダルカナル島、
ほか沢山の島にわたってそれぞれの部隊が統治していました。
その総元締めが第八方面軍です。
その第八方面軍司令部はニューブリテン島のラバウル にあり
私の部隊も ニューブリテン島内にあり、方面軍の直轄になっていました。

 軍隊も一般会社や役所と同様人事異動があり、
戦死者が出れば当然その穴埋めが必要になります。
私が一時期 中将閣下の専属副官をやっていたのもほんの一時期のことでした。
「戦陣の断章」にも書きましたが、私たち夏兵団に今村大将が視察に来られた時、
兵団内将校による会食があり、その時初めて今村閣下にお会いしました。
下級将校にとってみれば大将というと雲の上の人ですからね。
しかし光栄でした。その時今村大将の威厳というものが感じられました。 

           <会食のメニュー>は? 

 会食といっても戦場で、しかも内地からの補給も侭ならなくなっている状況下です。
せいぜいタロ芋(サトイモに似ている)の煮たもの、カナカほうれん草のおひたし、
高野豆腐の煮付け、パパイヤの漬物ぐらいがオカズでした。
ご飯は偉い人にだけ出し、
われわれ下っ端はサツマイモ(沖縄100号)のふかしたものです。
今村閣下は立派な方ですし、状況はよくご存知でしたから
「皆も食料事情の悪い状況下でよく奮闘されており、ご苦労なことです」。
     と労ってくれました。
酒も椰子酒でした。閣下の前にお酌に行った時のことは私の本にも書きましたが、
手が震えましたね。南方戦線は中国戦線と違い、何もかも爆撃で吹っ飛ばされて
しかも内地からの補給も途絶えましたから、食料は貧困でした。幸い熱帯地方の故、
自然の植物が豊富にありました(実際はみな現地人の所有物なのですがね・・)。
兵隊さんの中には職業柄料理の上手な人もいて結構いろいろ工夫してご馳走を
作っていましたよ。ですから上記の会食の時も一級の腕を持った兵隊さんが、
一生懸命腕を振るったことでしょうね。
 

 
 <著者が今村閣下にお酌をしに行った時に今村閣下が著者に言った言葉がある。
  「戦陣の断章」に詳しく書かれているが、今村閣下の人柄が偲ばれる一言であった。
  緊張していた若い将校に対しての閣下の親心だったのではないだろうか?
  その言葉は
  「せんずりばかりしていては駄目だぞ(^^)」 である。
  
  その場の光景が想像出来てしまう、
  そんな事言われたら益々緊張してしまうのではないだろうか(^^)
  これを知った自分は益々今村将軍を好きになってしまった。
  
  戦後の部下を思う行動は、恐らく誰も真似の出来る事ではない。
  この事は、「外伝」の中でも紹介してきた。
  責任を取るということは、ただ辞めればいいのではないのである。
  そのことを皆がもう一度考える時期が、この国に来たのではないでしょうか?>
  
                                    by Switch-Blade  
  
  今村大将謹慎室 
  http://www.geocities.jp/kinsinsitu/
  
  
# by switch-blade | 2004-09-23 03:12 | 第二十一話~第三十話 | Trackback | Comments(0)

訂正事項1


 この戦陣の断章「外伝」のタイトル84歳の「戦陣の断章」とありますが、
私、大きな勘違いをしておりましてタイトルを変更させて頂きます!

新しいタイトルは、
83歳の「戦陣の断章」


これからも忘れてはならない歴史を公開致しますのでどうぞ宜しくお願い致します。

 
# by switch-blade | 2004-09-22 16:35 | 「外伝」ニュース | Trackback | Comments(0)

 
第一線の戦場から帰り、

いよいよラバウル地区要塞の建設と敵上陸に備えての訓練です。

訓練の要諦は対戦車攻撃です。一回り大きい戦車を想定しました。
ゴム林に沿った三叉路でどちらから彼等が突入してくるかも訓練にはいりました。
対戦車の武器といっても特にありません。
要は戦車のキャタピラを斬れば行動不能になります。
 キャタピラを破壊する手段として「破甲爆雷」がありました。
直径25センチぐらいでしたかと思います。
今中東で除去に苦労していますね。あれに似たものです。
如何せん、貴重なもですから中東地区のように
何処も彼処にもという状況にはありませんので、そこが日本人の頭のよさ?
竹棒の先にくくりつけて隠れており、戦車がやってくると
背を低くして「やツ」と爆雷をキャタピラの下に差込み破壊させるという戦法です。

        勿論決死の覚悟です。
戦車と一緒に爆死するかもしれませんね。
各部隊の分隊単位に一人担当がいました。待ち伏せのための陣地はとくにありません。
臨機応変に対応出来るように訓練しました。
歩兵以外でも同様の訓練をしたと思います。方面軍からのお達しですからね。

米軍が上陸してくれば当然戦車が主力になると想定していましたから、
対戦車訓練が主な対上陸戦法になっていました。
当然対空戦闘も訓練の対象です。
機関銃の脚を一人が持ち、一人が空に向けて射撃するという原始的(?)なやりかたです。
歩兵にはとても飛行機を攻撃するなどという役目はありませんからね。
しかし超低空でやってくる飛行機には、それなりの攻撃の訓練は必要でした。  
久留米にいるときの訓練は、戦車に沿って一緒に攻撃する定石戦法と戦車が
向かってきた時に飛び乗って天蓋をこじ開けて 手りゅう弾を投げ込むという戦法
でしたが、
後者の場合は最後の手段で、戦車のどの方向から、
また、どこから飛び乗るかが大変でした。
しかしまだその頃はそんな切羽つまった気持ちはありませんから、
恐ろしい気持ちが先にたっていましたね。
しかしマーカス岬の戦場では現実にこれが功を奏したのですから今になって振り返ると
平時の時の訓練は、あらゆることを想定してやるものだなとつくずく思いましたね。

第8方面軍傘下の南方の戦場ではどこでも同じような状況だったでしょうね。  
b0020455_2037165.jpg

※ この写真は国内での演習風景である
 専門家に見て頂いたところ、中々お目に掛かれない大変貴重な写真とのことだ。
 やはり空襲などで焼失したり、長い年月の経過で劣化は避けられないとの事である。
  

                                   by Switch-Blade
# by switch-blade | 2004-09-21 14:59 | 第二十一話~第三十話 | Trackback | Comments(0)

「外伝」 第二十一話

我々士官学校の同期生7名が、連隊に着任した話は「戦陣の断章」に書きましたが、
その内1名はツルブの戦闘で戦死、1名はマーカス岬の戦闘で斥候に行ったきり行方不明、
1名は病没でした。

最初の男は、将校室で上官だった中尉の拳銃を借りて、
弾丸の入っていないことを確認したうえで引き金を引いたら、
なんと暴発し中尉にあたって 即死させてしまったのです。
それからというものは、当然ながらそのことで頭はいっぱい。
遂にツルブの戦闘で華々しい戦死をとげました。
次の男は、マーカス岬の戦闘のとき兵2名を連れて斥候にでましたが、
おそらく途中で敵と遭遇してやられたのでしょう。
とうとう帰ってきませんでした。
3番目の男は、まだ駐留している時になにか悪い物を食べてのでしょう。
赤痢症状の病気にかかり、我々同期生で野戦病院に見舞いに行きましたが、
もう鼻や口から蛆が出入りしており「宮本頑張れよ」と励ましたが虫の。
その後亡くなりました。
戦死と行方不明と病死。人さまざまの運命の分かれ道でした。
屯営で一緒に訓練をし、同じ部隊で苦労した者同士ですが、
私のように生きて帰れた者もおり、誠に複雑な思いです。 



士官学校同期生の事について書かれたメールである。
この文の最後に「私のように生きて帰れた者もおり、誠に複雑な思いです。」
このように書かれている。まさに胸が締め付けられる文章である。
この一行、たったこの一行を読んだ自分も複雑な気持ちになってしまったものである。
この一行には本当に多くの出来事、思い出、一言では語れない気持ちが、
詰まっているように感じられた。

苦戦を強いられた各戦線で、幾度となく「もはやこれまで」と腹を決めたであろうか?
「進むも亡国、退くも亡国」このような状況の中で一体何を心の支えとしたのだろうか?
自分の親兄弟が空襲亡くなられたり戦死したと連絡を受ける事も数多くあったであろう。
一体どんな気持ちになるか、是非一度考えてみてはどうだろうか。

「靖国で会おう」「先に九段で待っているよ」と約束して皆戦ったのだ。
外国の戦没者を参拝するのも勿論結構だが、この国の戦没者の参拝が先である。
# by switch-blade | 2004-09-21 14:28 | 第二十一話~第三十話 | Trackback | Comments(0)

 原爆記念日がまたやってきましたね。
毎年ながらこれをうらむ言葉が
マスコミから全く出てこないのに腹立たしさを感じます。
 
相変わらず靖国参拝問題がテレビや新聞で話題になっていますが、
どうして政府は毅然と日本の立場を内外に声明できないのでしょう。
広島の秋葉市長の平和宣言は立派でした。
私は、毎年今頃になると言い知れぬ気持ちに襲われます。
自衛隊のプロペラ機の音が昔を呼び起こさせます。
パンパンパンという機銃掃射の錯覚です。

 昭和20年8月13日からは米軍機の爆音がぱたツと聞こえなくなりました。
14,15日も同様で、おかしいなと思ったら終戦詔勅です。
一同大ショックでした。これからが大変。 
自決実行の防止におおわらわでした。
それでも高級将校を始め多くの将兵が自決しました。 
気持ちは分かります。

私達もここで思い留まって今村大将の「復興参加」のための
訓育を受け、部下に指導を行ったのです。
隠忍自重の甲斐あって、翌21年の5月中旬に無事復員を完結しました。
細部は私の著書にも書いてあります。

毎年今頃になるとあのころが偲ばれて心は遥かなる南太平洋に思いを馳せています。
懐かしい戦友も、戦死者は勿論、最近まで澤山病没し淋しくなりました。
なるべく多くの思い出を貴君に伝えようと思っています。
叢書はどのあたりまで進みました?
では・・・。        H・T


原爆の日に頂いたメールである。
負けたから「犬死」と、言う人物が多く存在するが、
負けたから全てであると言い放つのは愚の骨頂である。
復興の為に復員後職にありつけるように教育をする事が如何に大変か!
本土が空襲によって焼野原と化した事は誰もが知っている。
それでも、
もう一度日本を立て直すのだ!

これは現在の日本人が何処かに忘れてきた事のような気がしてならない。

「我々は泣きながら戦っていましたよ」※1
次々と戦友が落とされて行く光景を目にしながら戦う。
この事が一体どれだけ想像を絶する事なのか?
どの戦場でも同じ事が言えるであろう。

再び繰り返さない為に全否定するのは如何なものか?



※1 柳田邦男著「零戦燃ゆ」から引用
# by switch-blade | 2004-09-20 16:27 | 第十一話~第二十話 | Trackback | Comments(0)


 さて、初年兵=二等兵として福山市の西部63部隊に入隊。
母親と連れ立って営門まで・・。そこで母とはこの世のお別れか。 
営兵内で私物を脱ぎ捨てて二等兵に。服はだぶだぶ帽子はゆるゆる。
軍隊では服や帽子に体を合わせるのだとか。
私物は家族に持ち帰ってもらった。いよいよ帝国軍人である。
営舎が決まり、班が決まる。小銃、帯剣ほか一式与えられ自分の寝台の上に
きちんと整理をする。
寝具の折りたたみ方を教わり、便所の位置やら班の出入りのときの挨拶なども教わる。
初日の初年兵は、お客様である。古年兵も親切だ。しかし二日目ともなると状況は一変す。


二日目からはお客様ではなくなる。
もたもたしていれば容赦なくビンタがとんでくる。 
帝国軍人になったのだから・・・・。
というわけで一兵卒のスタートとなるが、要領のいいもの、動作の早いものはいいが、
その反対のものは当然ビンタの対象となる。
これは総て戦場に於ける動作を訓練していることであり、
古年兵が悪用すると私的制裁となる。
私達は、当初から幹部候補として入隊したこともあり、この辺は心得ており、
助教、助手の古年兵も真剣に教導してくれた。
現在、年配者が昔の軍隊生活を面白く見てもらうため、
悪い面のみ誇張して出版しているのは、私には胸が悪くなる思いがします。
戦場の生活は内地では想像出来ません。
苦労を良い面に変えられるのはいわゆる日ごろ鍛えた軍人精神にあったのです

当時の大和魂がそれでした。

軍人精神は生半可なことでは出来るものではなかったのです。
今では想像出来ないことでしょう。
軍旗(連隊旗)は天皇陛下そのものでした。
死んでも旗手は手から離すことは出来なかったのです。
ですから転進のときの連隊旗手は大変でした。それだけ旗手は名誉なポストだったのです。


 著者の入隊時のエピソードである。
「ガツーン」と拳骨が飛んでくる光景が想像出来る。
ここで笑い話を一つ。
以前勤務していた会社での出来事である・・・
ミスの多いある若い新人に対して、注意をした時の事だ。(優しくね)
中略~
新人「これから私に注意をしないで下さい!私は褒められなければ駄目なんです。
   だから失敗しても褒めて見守ってください」

信じられないこの言葉に自分は、
ホワイトアウト

 していた・・・余りにも時代が変わってしまった・・・・
# by Switch-Blade | 2004-09-18 16:50 | 第十一話~第二十話 | Trackback | Comments(0)

 
これこそ南方戦線の最も重要な問題点でした。

 ラバウル、ココポ周辺には当初莫大な兵器、弾薬、食糧等を蓄積してあったようですが、
日毎の爆撃によって吹き飛ばされ、われわれのように西部地区に駐留していた部隊には
限度があり、輸送が不如意になるほど不足してきました。
 戦闘が始まった当時も十分ではなかったのですが、日が経つにつれ欠乏していきました。
「カ号作戦」の発動で、ラバウルへの行動が始まる頃には、食糧は底をつき
頼みの舟艇も来てくれず、結局現地で調達ということになったのです
 バナナの芯、椰子の実のコプラ(内側の油皮)と水、果ては現地人が栽培している
タロイモをかっぱらい、河の水を水筒につめ、名もない草の葉や実を食べ食べにて
餓えをなんとか凌いだのです。前述のとおりラバウルまで600キロ余
(これはあとで分かったことですが)
約2か月余りかかってラバウルに終結したのです。
まさに地獄そのものでした。途中で落伍したもの数知れず、ジャングルの中で、
河のほとりで息絶えたものそれはそれは筆絶に尽くせません。
この平和な世の中で説明しても想像できないでしょう。

戦後聞いた話によると、満州の方では食べきれない程の食糧があったと聞きます。
ガダルカナルの戦場と同じで、人肉を食べたという話もまんざらではないことです。
飢餓などという言葉でも現せません。餓鬼畜生といってよいでしょう。
しかしわれわれ将校には軍旗を捧持している者、機密書類を持っている者(私もそうでした)、それぞれ任務を帯びていますから下士官、兵と同じ行動はとれませんでした
              辛かったです。
敵に悟られないように日夜行軍するのですから大変です。
夜濡れた衣服を敵に見つからないように火で乾かし、
朝出発するとものの50メートルも行かないうちに、
また河渡りでビショビショという繰り返しでした。
ラバウル近くに達した頃は、服はボロボロ足は裸足という姿で
とても帝国軍人の面影はありませんでした。
 
我々は、トーマというところに着き、そこで最後の一戦を迎えるべく、訓練に励みます。その頃は一張羅の衣服を与えられ、帝国軍人らしくなった次第です。
それからは前述の通り敵の上陸に備えて猛訓練に入ったのです。


現地調達も餓死との戦いで南方戦場は似たり寄ったりだったのれはないでしょうか。



 【「食料自給率=国力」である。自給率の高い国ほど身勝手である。
この国の豊かさは本物ではないと思う方は一体どれだけおられるのだろうか?】
                                  by Switch-Blade
 
# by Switch-Blade | 2004-09-18 15:25 | 第十一話~第二十話 | Trackback | Comments(0)

 終戦記念日にあたり、またまた思うことがあります。
それは、アメリカの無差別非合法爆撃のことです。
 戦争はあくまで両国軍隊と軍人同士の殺戮であり
一般民衆や赤十字のマークのついた輸送船などに攻撃は出来ない事になっている。
 先程の大東亜戦争(太平洋戦争)の実態はどうでしょう。
日本本土の主要都市は殆ど焼き尽くされ、南方戦線からの帰還赤十字船が
殆んど爆撃で撃沈されました。あまつさえ原爆の実験までやったアメリカは
明らかに軍事国際法違反ですね。
 当時の参加敵国も知らん顔。国際軍事裁判でもうやむや。
日本の泣き寝入りで今日まで来てしまいました。今やアメリカ様様。
そもそもこの戦争は日本にとってやむを得ずに起こしたものであったことも忘れて・・・。
メデイアもこれらに触れようともしません。
(近隣国をべた褒めする媒体も多いが、どの道これらも同類でしょう。 by Switch-Blade)
 それとも日本が悪い事をしたのだからしょうがないとでも思っているのでしょうか?
戦艦の保有率5-5-3に反対して席を蹴った松岡全権大使の頃からの
事情を知らないと分からない筈ですね。
この小さな日本が多くの大国を相手に戦争に踏み切ることは
並大抵の判断では出来ない事です。

「窮鼠猫を噛む」
というところだったのでしょう。
毎年この時期になると腹が立ってくるのです。

 
「声を潜めていた人達が実際に多く存在するのである。
実際に命を賭けて戦ってきた方々の声は大変に貴重である。
もっともっと深く知らなければならないものだ。
その中には誇れる快進撃もあれば、悲惨な敗退戦もある。
疎開、食料不足、そして銃後の苦しみ、挙げたらきりが無い。
自分の祖父、祖母や知り合いの方がいらっしゃれば話を聞いてみてはどうだろうか?
せめて近代軍隊の誕生した明治維新以降の歴史をしっかりと
認識しなければいけないと思う。
現在「僕達、私達をもっと分かって欲しい」と言う人が多く存在する。
ならば、自分の事ばかりではなく大先輩の話に耳を傾けてみる事も
必要なのではないか?このように考えてしまう。勿論自分を含めての事だ。」
                                 by Switch-Blade

「外伝」 第十七話 終戦記念日 完
# by Switch-Blade | 2004-09-16 02:58 | 第十一話~第二十話 | Trackback | Comments(0)

 オーストラリアとか日本でも西表島で見られるマングローブが
テレビでよく紹介されています。根が地上に三角形状に張り出し、いかにも固そうです。
下の水は淀んでいるようです。
 私達が、ニューブリテン島の西部ブッシングというところで敵の上陸を
監視かたがた駐留していた時、
マーカス岬に相当部隊の米軍が上陸したとの知らせが入り

早速わが部隊に逆上陸の命が下りました

「戦陣の断章」にも書きましたが、夜陰のこと、大忙しで準備に忙殺され、
不必要なものは焼却し身軽な装備で大発7隻に分乗して出発したのです。
 寒さをこらえ、発動機のエンジンは止めて、棹で静かに進んだのです。
約24キロで夜が明けペイホ岬で一時上陸しました。
 
そこではじめてマングローブの林(?)を見ました。

丁度手先を曲げて広げたような根が張り巡らされ不気味な姿をしていました。
それからまた34キロ、神経を使いながら目的のマーカス岬に到達。
この辺は記録の通りです。
 上陸してからの苦労も書きましたが、そこに待ち受けていたのがマングローブです。
何回この上を渡ったか分かりません。前述のように上が平らな根っこですから
渡り易いのは利点ですが、固いために靴が傷みました..。
 
夜になれば、この根の上で横になった。

これらのことを思い出すと今見るマングローブとは種類が違うことが分かります。
しかしこのマングローブのおかげで何日遅れたか分かりません。(第四話参照)
まさに憎ツくきマングローブであったのです。戦場に着いた時、靴はいかれてしまいました。
私には、ロマンチックとは程遠いものでした。

「外伝」第十六話 「マングローブ」完

   
# by Switch-Blade | 2004-09-15 16:48 | 第十一話~第二十話 | Trackback | Comments(0)

「外伝」 第十五話 

 
この「外伝」の中で出てきた、今村均将軍という名前を覚えているだろうか?

 今の日本ではすっかり馴染みの無い言葉の一つではないだろうか?
将軍というと、まさに映画の中の歴史上に登場する人物か、
もしくは、TVニュースなどでよく見かける在日米軍の「~司令官」「~将軍」「~参謀長」が、
誰でも知っている名称だと思います。

 本来、軍高官や政治家は多大な責任を背負い命令を下すものだ
例えば一般社会で、この責任という重みを背負い真剣に仕事をこなす人間が果たしてどれほどいるのであろうか?
あなたの会社にも責任逃れをする上司がいるのではないでしょうか?
そのような人間にはついてはいけないと、誰もが思うことでしょう。
現にそう思っている人も多い事でしょう。
「外伝」第二話で紹介した今村均将軍の事をもう少し書いてみたいと思います。
 ジャワ島の軍政で証明されている通り本国からの命令である「圧政」を断固拒否。
インドネシアの独立の礎を築く事を前提とした政策を押し通した

そして戦後、勿論日本の敗戦に終わったが、今村将軍はここから更に
一軍の将たる責任を見せる。
責任を取って自決するのではなく、自らの行いに自身を持ち、無実を主張するだけではなく
「我が将兵を罰せず我を罰せよ」

                    こう言い放った!
そして、部下の無実を主張し戦ったが結局10年の懲役刑を宣告され、
巣鴨刑務所、通称「巣鴨プリズン」に収監された。しかし部下達がニューブリテン島近郊の
マヌス島で悪条件の中で刑に服している事を知ると、
自ら希望し劣悪なるマヌス島に移送された。
将軍は、かのマッカーサーに再三申し入れをし、わざわざ劣悪な条件下に身をおいた

常に部下と同じ場に身を置き部下の苦しみを自身の苦しみとして受け止めたのである。
刑期を満了し帰宅後、世田谷の自宅に作った約三畳の「謹慎室」にこもり、
部下達の就職の世話などに尽力しながら執筆活動をしていた。
武人としての資質を完璧にまで持ちその人間性もまったく非の打ち所が無い今村将軍は、正に日本が世界に誇れる「大和民族の精神」の持ち主である。
このような人物が現代の我が国にとって一番必要なのではないだろうか?
戦陣訓を作ったのは今村将軍である、島村藤村に手伝って貰ったが為に
完成された日本語となっているが、この戦陣訓のなかで「生きて虜囚の辱めを受けず」の
文に対して「これは本意ではでは無い」と後悔していたという。
 昭和二年までの七年間フランス大使として日本に駐在したクローデル氏は
敗戦後の日本を次のように予言している。
「日本は神の国であったとき、

極めて光栄ある日々を知ることを知ることと得た。自分は信じている。

犠牲者によって流された血潮は、決して空しいもので終わることなく、

日本国民に神の光をもたらすに違いないことを。

これは、今や墓場に近い八十歳の老爺が、諸君に告げる予言なのだ。

日の本の友よ勇気を持て!!勇気を持て!!日はまさに昇らんとしている!

                          日本万歳!」

b0020455_345374.jpg
※現在は韮崎にて大切に保存されている謹慎室

脱線しました・・・
言わんとしていることが少しでも伝わればいいなと思います。
要するに、命を賭けて部下を守らなければ、
上司ではない!!

switch-bladeは、これがいいたかったのかもしれません。

最後まで部下を思った今村大将に対して、自分はまたしても
自分にこれだけの勇気があるのだろうか?と、自問自答している。

 今村将軍の謹慎室は山梨県に移送されている。
自分はこの夏謹慎室をこの目で見てきた。そしてこの今村将軍の何かを感じたと
勝手に思っている。
敗戦国日本だからといって捏造歴史ばかりでは嫌になる。
一度しかない人生、自分は楽しくて面白おかしく生きる事に興味がなくなってきた。
大切にしたい何かを守っていくことにした。
# by Switch-Blade | 2004-09-15 03:03 | 第十一話~第二十話 | Trackback(1) | Comments(0)

「外伝」 第十四話

 
 旧軍に、陸軍では士官候補生と幹部候補生
海軍では海兵出身者と海軍予備学生の制度がありましたね。
前者は所謂職業軍人の卵であり、後者は予備役将校になる学生あがりの卵です。
海軍のことはよく知りませんが、陸軍では士官候補生出身の将校が
どんどん偉くなっていくのは当然です。
幹候出身は謂わば消耗品みたいなもので、戦争が拡大して将校が足りなくなったための
急増品みたいなものです。
 しかし、いざ激戦というとき、勇気百倍、実力を発揮したのは大部分が幹候出身者でした。
というのは、お分かりでしょう。職業軍人には出世欲があります。
格好よく立ち回っていれば出世につながるというものです。
幹候出身者は、せいぜい大尉どまりです。しかしそんなことは眼中にありませんね。
どこの戦場でも先頭に立って勇猛果敢に突進します。

小、中隊長クラスですから・・戦死者も当然多くなりました。
海軍航空隊の体当たりの士官は概ね予備学生出身者でしょう。ご存知のとおりです。
 こんなぐあいですから幹候、予備学をいくら造成してもどんどん消耗していったわけです。
しかし今、彼らをいくら褒め称えても帰ってはきません。
せめてこんな情けない日本を見ないで「神様」になった方が
よかったと自分を納得させるほかありません。



せめてこんな情けない日本を見ないで「神様」になった方が
よかったと自分を納得させるほかありません。
と、最後に書かれているが、
自分はこの最後の二行についてぐうの音も出なかった事をよく憶えている。(^^;)

                            by Switch-Blade
# by Switch-Blade | 2004-09-13 23:39 | 第十一話~第二十話 | Trackback | Comments(0)

自衛隊イラク派遣のTV画像を見ていると軍隊当時のことが想起されます。
 
霧島山麓に野営に行った時、実弾射撃の訓練をやりました。
広い山麓で重機関銃で実弾をぶっ放すのですから気持ちがいいですよ。
標的目がけて撃つのです。地煙が上がって着弾の位置が分りました。
 翌日、軍装で高千穂の峰に登山しました。女体山に旧噴火口があり、
火口に石を並べて「久一士」と書いてありました。
「久留米第一陸軍予備士官学校」の略です。先輩がやったものでしょう。
男体山の頂上に祠(ほこら)があり、中に錆びた鉾が刺さっていました。
これが所謂「天の逆鉾」です。ここで着剣して「捧げ銃」をしました。
「天孫降臨の地」と言われている所ですね。
 現在「天孫降臨の地」と言われているところは各地にあって争いが絶えないようです。
今霧島山の「逆鉾」はどうなっているか分りません。懐かしい思い出です。


 「外伝」第十三話「霧島山」完
# by Switch-Blade | 2004-09-13 20:59 | 第十一話~第二十話 | Trackback | Comments(0)

「外伝」 第十二話

 テレビで 戦争関連のドラマやニュースが結構ありますね。
観ていて思わず笑ってしまうことが時々あります。
 というのは・・・。
 「召集令状がきて・・」とか「軍隊にひっぱられて」という表現です。
いかにも行きたくない所にいやいや行かされるという印象を与えてしまうことです。
左がかった局に多いのでしょうが、戦後生まれで軍隊に関する知識の少ない人達が
作るからでしょう。
 貴君はご存知のように、当時は国民皆兵で、男子20歳になれば
否応なしに徴兵検査を受けなければなりませんね。
海軍を志願した者もいました
 特別の病気や不具者でなければ軍隊に入営し、数ヶ月の訓練を受けて一人前の
兵隊さんになってから戦場に行くのです。これが「現役の兵隊さん」です。
「召集」というのは、平時は2年軍隊生活をやって満期になると家に帰り、
戦争で多くの兵隊を必要とする時に「召集」という形でまた軍隊生活に戻るのをいいます。
中には二回三回と召集された人もいました。支那事変に参加して金鵄勲章を
持っている人もいます。
つわものですね
私らは2年で満期などありませんでした。引き続き臨時召集という形でそのままです。
前に戻りますが、召集令状が来る人は大体一度軍隊生活をやった人が大部分でした。
「召集令状でひっぱられる」などというのはおかしな表現で、
その時代の男だったら概ね喜んだ筈です。
いやなのを無理やりひっぱっていく印象を与えて嫌ですね。
現役と召集の区別が判らないのですね。それと軍隊に嫌悪感をもっているマスコミなどは、召集令状で無理やりに・・・と言ったほうが気が済むのでしょうね。


 これは実に面白いメールだったと記憶している。激しく同意したものだ。
例えば「玄関に赤紙が張られていた!いよいよ私にも赤紙がきたか・・・」
このような書物や報道を以前は(子供の頃とかね)よく見聞きしたものだが・・・ 
                                 by Switch-Blade
# by Switch-Blade | 2004-09-12 18:18 | 第十一話~第二十話 | Trackback | Comments(0)

「外伝」 第十一話

自分の質問に快く答えてくださいました。
 -さて、お尋ねの件。-
1 オウムやニシキヘビの味?
  腹ペコの時にはなんでもおいしいのはあたりまえですが、
正直いってどちらもおいしかったです。
 オウムはやはり鳥ですから「かしわ」に似ていました。
ちょっと固いか?羽は綺麗なので原住民にやりました。
開墾をしていれば蛇は出てきます。
皆小さいものばかりですが、蛋白源ですから必ず捕まえて食べました。
もっとも一匹ぐらいでは分けようもありませんがね・・・。
しかし大蛇ともなれば肉が多いですから、分け前は多いですね(笑)
蛇には肋骨がおおいので肉をはがすのが大変でした。

2 地下要塞洞窟について
  内地でも洞窟が掘られたことは、周知のことですが、ラバウル地域の洞窟は、
今村閣下の方針により長期決戦に備え、全軍地下に潜りました。
方面軍発表の数字は、私の著書にも書いた通りですが、各部隊毎に濠を掘り、
武器、弾薬、食料など総て濠の中に入れました。
ただ、当然ながら湿気による被害もありました。
 俗に言う「ラバウル地下要塞」が出来上がり、「米軍よいつでも上陸して来いよ」
という態勢が出来上 がったのです。万が一米軍が上陸して来たら、
おそらく大打撃を受けたろうと思います。
今だからこんなことが言えるのでしょうがね。
 
しかし、公刊戦史によれば、米海兵隊もラバウルには上陸しなくてよかったと書いてありました。
    
# by Switch-Blade | 2004-09-11 04:01 | 第十一話~第二十話 | Trackback | Comments(0)

「外伝」 第十話

マラリアと麻酔について

 マラリアについては、前にも触れたと思いますが、南方戦線では最重要な課題でした。
というのは・・40度からの熱で一日おきにガタガタとふるえがきて
「この世」ではない状態になります。
本にも書いたように当初はアテブリン、アクリナミン、プラスモヒン、ヒノラミンといった予防薬もあったのですが、当然底をつき、蚊帳をつって寝ても蚊はどこからでも入って
きますからマラリアによる被害は南方戦線にはつきものです。
 米軍の方はどうだったか判りませんが、マラリアとの戦いでもあったのです。
三日熱、四日熱とか熱帯熱があり戦力の低下は避けられませんでした。
 次に歯の治療のことですが、勿論今の器具とは比較出来ませんが、
治療台をはじめなんでもありました。
 要は、総てが内地と全く同じということです。
ただ爆撃でふっとばされなにかと不自由だったことは当然でした。
 当時の日本軍の装備は、米軍のそれとは比較になりませんでしたが、
所謂「大和魂」と「天皇の軍隊」で戦ったということでしょう。 
それでも最後まで負ける気はしなかったのですから、
当時の教育の徹底ぶりが判るというものですね。

戦場では「神風」を期待するなどということはありませんでした。


あのような戦闘をくぐりぬけてきた人間が、冷静に現場を見据えつつも
最後まで戦うのだ!と、思わせたものは一体なんであろうか?
「負ける気はしない」!!
著者は当時の教育の徹底ぶりと言ってはいるが、実際・・・
もしも自分がこの戦場で戦っていたら・・・
どのように思っていただろう?
「負ける気がしない!!」
生意気だが自分も同意見である。と、思いたい。 by Switch-Blade


 
# by Switch-Blade | 2004-09-11 03:52 | 「外伝」第一話~第十話 | Trackback | Comments(0)

 私が、見習士官として原隊に帰って間もなく、週番士官を命ぜられた。
夜中に兵隊さんを一人連れて巡察を行った時の話。
営内を巡視していると衛兵に遇った。
 衛兵は、すかさず私に「捧げ銃」の敬礼をし、「巡視中異状ありません。」
「「よーーし。ご苦労」と言い、ひょいと見ると、最新の九九式小銃である。
初めて見たので、「おい ちょっと見せてくれ」といったら、
「はい」といって私に銃を差し出した。するとその歩哨はあわてて私に跳びついてきて、
私から銃を取り上げた。 「よーし それでよい。 ご苦労。」といってその場を去った。
つまり歩哨は、立哨中は死んでも銃を手から離してはいけないことになっている。
 
私は、銃を見たさと歩哨の反応見たさの両方の気持ちで肩書きを悪用した悪さであった。
悪い男でしたね。
 九九式小銃は、これ以後見ることは無かったのである。
戦場では専ら三八式歩兵銃でしたよ。 
 
 <通信機と迫撃砲について、このように答えて頂いた>
 ジャングル内での連絡は、無線か伝令でその時の情勢で変わります。
無線も5号ぐらいだったか?通信中隊(iTL)が担当していました。
伝令が帰路やられる時もありました。
擲弾筒の弾は、手榴弾ぐらいで、筒先から込め、
地上に約45度ぐらい傾斜させて発射します。
ニーモーターなどという言葉は知りませんでしたね。
ニーは膝でしょうから、米軍の兵士は膝にあてて発射したのでしょう。
それでは大変です。野々村軍曹(当時兵長)は、背嚢を胸に背負い、
そこに擲弾筒をあてて発射したのですが。勿論反動で彼はひっくり返りました。
彼は土佐の生まれで勇敢な男でした。これが切っ掛けで味方が勇気づけられ、
慌てふためく米軍を追い払い、戦車に飛び乗り手榴弾を天蓋からぶちこんだりしました。
戦車は目が見えなくなり、あちこちで座礁したり引き返したりして、
結局追っ払ったというわけです。この戦闘で彼は2階級特進して軍曹になったのです。
私らも前述のように金鵄勲章の候補(殊勲甲)になった次第です。
 真野五郎中将は明治の生まれですから達筆で候文などが使えるのですね。
私も感心してしまうほどとても達筆な方でした。

 

人間どんな場所or会社にいようと、勇気を試される事が頻繁にあると思う。
その際にどのような行動を取るか!これが問題である。
どうだろう?自分はきちんと生きているのだろうか?自分にこう問いただしてみる。
曖昧に流して楽を取る事をよしとするか?
駄目なものは駄目だと言える勇気を持つべきか?
どちらにしてもそれぞれの人により簡単な事ではないはずである。
もしかしたらどちらにも当てはまらない方法があるのかも知れない。
さて、皆さんはどのように思われるのか?  by Switch-Blade

 「外伝」 第九話 完
http://www.yokohamaradiomuseum.com/
通信機について参考になれば・・・
# by Switch-Blade | 2004-09-11 03:24 | 「外伝」第一話~第十話 | Trackback | Comments(0)

「外伝」 第八話

 「外伝」第一話~第七話までは、著者が実際に体験した事を、
私、Switch-Bladeにお送り頂いた資料を基に掲載したものであり、
その資料は、その体験と記憶から綴られた物である。

戦史に興味がおありの方、詳しく知りたいと思われた方は、
日比谷図書館及び目黒にある防衛庁 防衛研究所にある図書館資料室「戦史叢書」
(全102巻)(目黒防衛研究所では貸し出し不可)にて閲覧可能である。

「戦陣の断章」の著者からお送り頂いた資料の表紙にはこう綴られていた。

        
戦争とは、なんと残酷で空しきものか 
個人的には何の恨みも無い者同士の殺戮
国敗れて山河ありといえども
命により戦い、若くして散華した多くの
戦友(とも)は再び帰り来ず      合掌


  

 
# by Switch-Blade | 2004-09-10 23:38 | 「外伝」第一話~第十話 | Trackback | Comments(0)

 虎の子のたった一門の大隊砲のスコープが飛び散り破壊されたとの報告が入ってきた。
P38は地上すれすれに機銃掃射を加えてきた。
第一線では引き続き我が九二式重機関銃の音がダダダダダと頼もしく撃ちまくっている。
 一瞬、カチッ・・・というような音がして重機の音が止まったと思うと、
第一線からキャタピラの音がカタカタとしてくるではないか。ただ事ではない
戸伏大隊長から命を受ける

本部付の著者(当時陸軍少尉)は、銃砲撃のの最中壕を飛び出し、衛生、経理伝令の
下士官に至るまであらいざらいかき集め約二十名を掌握。大隊本部から
主要道路北側の窪地を道路沿いに敵側に向けて前進する

 爆撃であけられた漏斗孔をいくつもまたいで前進した。
ここ数日来の砲爆撃で一帯焼野原、焦土と化している。
上空からは勿論丸見えだ敵機に狙われたらひとたまりも無い。
キャタピラの音はどんどん近づいて来る。
              伏せ!!
  道路沿いの傾斜に一同伏せる。
ボサの間から頭を上げたとたん、M3と思しき軽戦車が2台侵入してくる。
道路は狭くかつ倒木した椰子や葉、爆撃時に開いたクレーターに遮られ速度は緩慢だ。
見ると随伴歩兵が雨ガッパを背にかけ、自動小銃を方にタバコをふかしながら
「ヘイヘイ、ゴーゴー」と、わずか五メートルの目の前を歩いているではないか!
          
「クソ野郎!!」

このまま側面から攻撃したのでは全滅してしまうと判断。
戦車は歩兵を伴いどんどん大隊本部に向かっている・・・
よし!前へ廻り込もう!!  「頭を下げろ」の合図で一同来た道を再びソロソロと下がった。
我が大隊本部の辺りに来ると、敵は戦車と随伴歩兵は左第一線の背後を襲う態勢にあった
意を決する・・・よし!!ここだ!!「射て!!」一斉に火を噴いた!
大隊予備隊からもあらゆる兵器が戦車と歩兵に火力を集中した。
その時、「ドガン!」と物凄い擲弾筒の音がして、一つの戦車に閃光が光った
銃眼を潰され盲目になった戦車は停止し、乗員は天蓋(ハッチ)をあけ逃走、
更にもう一台の戦車にも攻撃を集中。  敵随伴歩兵は散乱した。
右第一線に突入してきた敵戦車二台も陣地後方湿地帯にはまり込んで
進退不能になったところを第二中隊が攻撃を加えて大破炎上。
午後三時頃サイレンの音が各地で鳴り出し、敵は撤退を開始。
再び敵の援護砲撃が始まり、午後四時頃まで続いた。
 
 かくしてマーカス岬一帯は焦土と化し、硝煙と血生臭さを残して一応は静まったのである。

 第一線は、戦車十台に蹂躙され、混戦乱闘、機関銃中隊も玉砕同様の犠牲を受けた。
今田克己小隊長が戦死したとの報告が入ってくる
夕刻に入り三々五々第一線からの生き残りの将兵が集合してきた。
誰もが激闘に惟悴しきっていた。

 小森支隊長は、飛行場確保という任務を考えて一応飛行場西地区への後退を決意し、
夜間計画通り完了した。その後、敵の動きは特に見られず、
        支隊も態勢立て直しの余裕が得られた。
 アラウエ(メッセリア)飛行場の西側で新たな布陣を行った支隊に、
     十八日 「敵の飛行場設定企画を破摧せよ」
いわば玉砕命令が、十七師団司令部から発せられ、いよいよ全軍覚悟を新たにする。
 相変わらず米軍の動きは不気味なほど平穏で、時折、偵察機が飛来する程度であったが
小森支隊長の判断で第二中隊を飛行場に残置し、主力は東側に移動し
態勢を整えることにした。
 二月九日、重ねてマーカス部隊は、「引き続きマーカス地区で最後まで敢闘すべし」
という趣旨の命令に基づき、我が第一大隊は飛行場西側に斥候隊を配置。
主力は東側で頑張っていた。
二月に入ると雨が多く、したがって患者の数も増加し、逐次後送される。
これは、マーカス岬の戦闘での疲労と不衛生によるものだろう。
 
 敵の斥候隊が出没するという。
十二月二十六日正午、突然「タラモアに向け移動すべし」との命令が大隊長に届いた
玉砕覚悟の我々は一時ためらった・・・

 ツルブ附近の夏兵団の主力は、すでに東方に向け移動しつつあるとの情報が入った。
直ちに部隊を掌握、二十七、二十八日の両日に渡りディディモップから北上を開始、
二十八日午前五時頃「ブリエ河」を渡河、
いわゆる「カ号作戦」の苦闘に入る

 ラバウル要塞構築の為の後退転進作戦とはいえ、行く先々で兵站はもぬけの殻、
敵の上陸、病魔、そして餓鬼との闘い。
ラバウルまで延々約600キロ、二ヶ月半余の悲惨極まる
「カ号作戦」の苦闘も亦、後世に伝え残さなければならない戦歴の一ページであろう。

 現在はどうなっているか分かりませんが、この戦闘は陸上自衛隊幹部学校の「戦史」の
教科書に採用されております。


 「外伝」第七話「カ号作戦発動」完  続く
# by Switch-Blade | 2004-09-10 18:43 | 「外伝」第一話~第十話 | Trackback | Comments(0)

「外伝」 第六話

もうもうたる硝煙で何も分からない

 他の壕が、戦友がどうなっているか気がかりだ
「おーい」「おーい」と呼び合うが見当が付かないのだ。
三十分も経っただろうか、硝煙がやや静まり、大地がわずかに見え始めたとたん
気が付いたなんと周辺に直径五メートル以上もある漏斗状の弾痕が
いくつもあいており、昼なお暗いジャングルがすっかり吹き飛んで
焼野が原になっているではないか!
 支隊のこれまでの損害は、戦死六五、病死十、負傷五七、行方不明十四に及び態勢を整理すると共に海上を警戒する為の部署の一部を変更。
飛行場と海岸近くの洞窟にも中隊を配置し、佐々健彦中尉率いる第三中隊が予備として
ベンガル湾地区の陣地が増強された。
 これまでの経過を、小森支隊長から第十七師団長に対し
「依然任務ヲ達成シアリ、戸伏大隊ノ来援ニヨリ士気旺盛、敵ノ砲撃ニヨリ
マーカス半島ハ清野化サレ、糧秣ハ現地ノモノヲ消耗セリ」
と報告を行い、
 これらの戦況は上奏の際上聞に達し一月六日に師団参謀長を通じ
御嘉賞の言葉が伝達された。
一月九日も相変わらず砲撃が続き、昼と無く夜となくヒュルヒュル
シュルシュルと頭上に不気味な音がうなる。神経戦だ。

幅約五百メートル、深さ(奥行き)一キロメートルに及ぶ縦深に配置された敵の
陣地からは勿論、周辺の島々から間断なく砲撃が繰り返され、
神経も極度に衰弱していた。

 第一線から負傷兵が運ばれてきた。血と泥と汗にまみれ誰か識別出来ない。
軍医や衛生兵が忙しく立ち回る。迫撃砲弾の破片でえぐられた顔や身体が
とりあえず拭い去られると、その一人は大隊砲小隊長の友沢達已少尉だった。
歯が吹き飛び右乳はえぐられ、大腿部をはじめ数個所に破片が食い込み
顔はまったく判別できないほど変形していた・・・
(大腿部の破片は直径約1.5センチ、長さ約9センチ 転進中は毎日傷口から
膿が一合位出たとの事だ。歯は七、八本、右乳もなくなった)

 十一日 
 いつものように激しい砲撃の後敵が出撃してきたが撃退した。
敵舟艇が海岸を偵察に来るので、佐々中隊は更にベンガル湾の警戒を強める。

 十二日
 案の定アラウエ(メッセリア)飛行場附近が敵舟艇から砲撃を受けた。
いよいよ飛行場争奪戦の様相が濃くなってきたようだ

 一月十三日頃から、敵陣地方向でジープの音やら戦車の音らしきキャタピラと
エンジン音が聞こえてきた。
 戸伏大隊長は戦車の出現も予想して、
右第一線 第二中隊(酒井)(一小欠)機関銃一小隊

左第一線 機関銃中隊(加地)(一小欠)第三中隊の一小隊予備、
第二中隊の一小隊、大隊砲小隊。

その他、第三中隊の主力はベンガル、支隊本部に配置。

 一月十六日は早朝から、ノースアメリカンB25、コンソリーデッドB24(爆撃機)、
ロッキードP38(戦闘機)などが飛来、その数も次第に増加し約五十機からの
銃爆撃が始まった。
いよいよ始まったか

 一同緊張する。
ダッダッダッ!ダダダダ!機関砲と機関銃の発射音と炸裂音が
陣地周辺にこだまし、激しい閃光とともに爆弾が炸裂する。
爆風が椰子とジャングルを揺がす。硝煙がたちこめた。
爆撃機が去ったかと思うと戦闘機が機銃掃射を開始する。
次いで敵陣地から大砲と迫撃砲が一斉に射撃開始。
見る見るうちに又もやジャングルが吹っ飛ばされ椰子林は丸坊主と化した。
大隊本部周辺も直径七、八メートルもの大きな漏斗孔がいくつも開いていた。
 第一線ではあちこちで我が機銃や小銃の音が
ダダダ、ドドーン、ダダダダ、タタタタ、ドドドドと間断なく鳴り響き、
マーカス岬一帯は阿修羅と化し彼我乱れての血の決闘となった。

「運命のカ号作戦まであと41日」


戦陣の断章「外伝」第六話 完
# by Switch-Blade | 2004-09-09 04:53 | 「外伝」第一話~第十話 | Trackback | Comments(0)

「外伝」 第五話

敵兵力も増強されたのか、正月早々猛烈な砲撃を加えてきた。

 ピレロ島、クンブン島など岬周辺の島々の砲兵陣地から十五榴や迫撃砲で撃って来るらしく、
頭の上をヒュルヒュルと不気味な音を立てて、アラウエ(メッセリア飛行場)レボン、ワヌー、
ワコー、ブリエ河、はてはスギリ入り江の方まで間断なく砲撃してくる。(後方遮断を企図していると思われる。)
一月四日、今日も朝から砲撃が激しい。迫撃砲は瞬発信管なので、
椰子の葉に当たっても上空で炸裂しギザギザになった破片が横穴の壕の奥に入っていた兵が、
斜めから飛び込んできた破片に当り戦死した。
 次第に着弾が近くなってきた一斉に退避する。
大地を揺るがす爆発。
くそっ!

         壕内で歯軋りをする!!
ヘリコプターからの偵察も併用し、彼等の狙いも大隊本部附近に集中してきた。
ドカ!ドカ!ドカ!という音と共に椰子材で構築した壕が崩れ落ち、
大量の土砂で頭から埋もれた、
至近弾だ!

 目の前が真っ暗になり、苦しくて身動きが取れない。
戸伏大隊長や大隊副官の蔵岡昇中尉はどうなっただろう?
うめきながら土をかき分け、力のあらん限り椰子材を押しのけ、
数分かかってかすかに地上が見えた。
運命の「カ号作戦発動まであと53日

「外伝」 第五話完
# by Switch-Blade | 2004-09-08 16:12 | 「外伝」第一話~第十話 | Trackback | Comments(0)

「外伝」 第四話

     
マーカス岬の戦闘

 昭和十八年十二月十四日、マーカス岬附近一帯は早朝からの激しい空襲で
爆煙に包まれ、敵上陸の気配が濃厚となってきた。
当時福島鶴寿中尉の指導する我がマーカス守備隊(約400名)は、
緊張のうちに警戒を厳にしていたが、果たせるかな翌十五日午前三時頃から
ゴムボート五隻に分乗した敵が接近、所在部隊はこれを射程内に引き寄せ
一斉射撃を開始した。たちまち数隻のボートを沈めて一応敵を混乱の内に退却させたが、
その後再び海岸陣地一帯に猛烈な艦砲射撃と重爆撃を浴びせてきた。
このためわが陣地の銃座も壕も跡形なく吹き飛び、午前五時三十分頃岬の西側から
水陸両用戦車LVT二隻を先頭にしてJ・カニンガム指揮下米軍第112偵察連隊戦闘団が上陸してきた。
圧倒的に優勢な米軍に、所在部隊は勇敢に迎撃に努め、
アラウエ(メッセリア)飛行場にあった三品中尉の主力の増援を求めた。
一方午前五時三十分ラバウルを発進した海軍航空隊も、艦爆、戦闘機約五十五機で
一時間後にマーカス岬に到着し、輝かしい戦果を挙げたが、
マーカス守備隊は圧倒的に優勢な米軍を阻止し得ず苦戦を強いられていた。
このため、我が歩兵第百四十一連隊第一大隊(大隊長戸伏長之少佐)に
マーカス岬に逆上陸の命が下り、ブッシングから七隻の大発に分乗して
十二月十八日払暁、オモイ(マーカス岬北方直線約五キロ)附近に上陸し、
マーカス岬攻撃のための行動を開始した。
詳細な地図も無く砲声と方角だけが便りの出発だ。
 オモイから東進し間もなく敵が地雷を敷設しているとの情報が入る
尖兵中隊が微弱な敵を撃退、地雷を警戒しながら現地人道らしき道を頼りに南下する。
ジャングルに入るとなんとサゴ椰子とマングローブ湿地の連続である・・・
足を踏み外しては大変だ、部隊は次第に隊列が伸び、各人木の枝に摑まりながら
マングローブの根の上を渡って歩いていく。ますます湿地帯が深くなり歩行困難となった。
針路変更し再び南下するもまた湿地・・・大隊長以下あせりながら、
ジャングルとマングローブ湿地に翻弄され、いたずらにむなしい日を費やしてしまった。

 マーカス岬に対する反撃はニューブリテン島での初戦であり
ダンピール海峡防衛戦の一段階を画するもので各方面から注目されていたはずなので
大隊全体が将校も将兵もあせった

かくして十二月二十六日、第三中隊新谷民夫少尉率いる将校斥候がようやくマーカスの
福島隊と連絡が取れた旨、大隊長の元に報告があり一安心した。無性に暑い
 アラウエ飛行場周辺の広々とした地帯に出て気分もすっきりしたが、
曝露した一帯は危険でもあり、戦場に一歩一歩近づき緊張感がよぎる。
深いボサに近づくとすごい死臭がしてきた・・・
分け入ると軍馬らしい屍体が腐っていた。まもなく米軍の若い将兵の屍が、
金髪を振り乱して転がっていた・・・
ムラムラと敵愾心が沸いてくる、マーカスの砲声が絶えない。
曝露したこの一帯を早く通過しないといつ敵機に発見されるかも知れず、
自ずから早足になり、目的の戦場「マーカス岬」へと急いだ。

 十二月二十八日朝、戸伏大隊長は一足先に到着した歩兵第八十一連隊第一大隊長
小森少佐の元へ自ら連絡に赴き、一応帰隊した。
その日の午後大隊主力はようやく戦場に到着した。
オモイに上陸してからなんと十日も要してしまったのである。
暑く重苦しい道程であった。
小森大隊長と第一線を交代した戸伏大隊長は取敢えずの布陣を行い、
二十九、三十日の両日に渡り今後の攻撃について小森支隊長と詳細な打ち合わせを行った
一月元旦、敵と対峙し砲撃の最中でお正月を迎える

暑さと砲煙の中で正月気分どころではない。昨日空中投下で手に入る予定だった
お年玉の甘味品が午後一時頃十五箱届いたので全員が喜んだ!有難い!!
この日酒井良典中尉率いる第二中隊は前進を試みたが、
敵第一線の陣地は増強されており反撃に遭い成功しなかった。

この後著者は壮絶な戦闘を体験する事になる。

そして運命の「カ号作戦」まであと57日

# by Switch-Blade | 2004-09-08 00:00 | 「外伝」第一話~第十話 | Trackback | Comments(0)

「外伝」 第三話

 
ここ数年で、自分を含む日本人は少々弱くなっていると思う事が多々ある。
逆境に弱く、自らの手で命を絶つニュースが後を絶たない。
生きているから辛いのだ

私自身こういう言葉をよく聞かされる。
そして自分もこのように思う事がやっぱりあった。
最近自分は辛い事件が発生すると
おっ!?来やがったな、次は何だ?
と、
思うように心掛けている。
そして自分に出来うる解決策を機械的に思考し始める。
これによって「何で自分はこうも運が悪いのだろう」と考えてしまう
ネガティブな発想が激減し、問題に立ち向かうように身体が動いてくる。
事故、事件、詐欺、リストラ、病気、借金、鬱、裏切り、虐め、
上げたらきりが無い!
世の中が辛いのは当然、だから楽しい事、うれしい事が記憶に刻まれるのである。
人間はこの世に生まれて来た時から、すでに死に向かって歩んでいる。
私は、自分が死ぬときに「ああしとけばよかった、こうしとけばよかった」と
後悔しながら死んで行く事を大変恐れている。
何が起ころうと精一杯生きていく事にした。
私の兄妹と友人は難病患者であるが、彼らは精一杯今を生きている。
       
                                  by Switch-Blade

戦陣の断章「外伝」第三話


私が久留米の士官学校で将校生徒として訓練を受けている時の話。
週に一回、講堂で中隊長の精神訓話がある。
われわれ候補生の年齢は20~24歳、中隊長は29歳ぐらいか?
勿論、陸軍士官学校を優秀な成績で出ていると思う。
厳かな口調でやる訓話の威厳のあること。
当時は年上だし、年齢のことなど考えなかったが、
今にして思うとどうしても現在の若者の歳を重ねてしまう。
精神訓話の最後には、毎回自分で作成した次の言葉を全員で唱えさせられる。

 勅諭に生き勅諭に死す。われは皇軍の禎幹(ていかん・鏡の意)たり。 
自ら信じ、自ら任じ、自ら重んず。

  勅諭とは軍人勅諭を言い、
明治15年1月4日に陸海軍軍人のあり方を懇切に教えたもので、長文なものであった。
これはわれわれが学校に在学中から覚えさせられたので、
覚えるのにそれほど苦労には感じなかった。
 下士官以下は、その中の次の5ヵ条だけ覚えればよかった。
 1 軍人は忠節を尽くすを本分とすべし
 1 軍人は礼儀を正しくすべし
 1 軍人は武勇を尊ぶべし
 1 軍人は信義を重んずべし
 1 軍人は質素を旨とすべし

 この勅諭は、前段に軍隊が出来るまでの経緯。
神武天皇ののころから軍隊は天皇自ら統率してきたという趣旨から
700年余武家政治になり、大政奉還で遂にもとの
天皇の軍隊に戻ったということが縷縷述べられ、
次に5カ条の説明になり、最後の結びとなります。
 全文実に名文で、5カ条のうち
礼儀、信義、質素の項は今の社会にも通じる内容でした。
 
 今、校則がうるさいとか、なにかと縛られるのをいやがりますが、
それが果たしてこれが民主主義なのか?と思ってしまいます。
やはり昔人なのでしょうかね。

  第三話 完
 

          
# by Switch-Blade | 2004-09-07 15:55 | 「外伝」第一話~第十話 | Trackback | Comments(2)

「外伝」第二話

 私は幸い高等司令部(師団司令部など)に短い期間でしたが
勤務(専属副官ーいわば中将閣下の高級当番)した経験がありましたので、
兵隊さんは勿論、中隊長クラスでもあまり知らないことを経験しました。
つまり・・大きな組織しかもジャングル地帯に広く配備された
数多くの連隊を意のままに動かすには、当然「命令」をくださなければなりません。
一般には「すすめー」とか「右へ行けー」ぐらいにしか考えていないのではないでしょうか。
戦中の女性、兵隊さんでも知らないと思います。
 「命令」は謄写版刷りの文章でやります。
作戦命令でしたら作戦参謀が起案します。閣下が赤鉛筆で自分の意図で朱を入れ、
私が清書して隷下部隊数だけ印刷して高級副官が部隊の命令受領者を集めて交付します。これで初めて各部隊が動き出すのです。この間せいぜい30分、
いかに軍隊の行動が迅速であるか分かるでしょう。
軍隊が常に迅速正確をモットーに訓練されているかが分かるでしょう。
戦場には謄写版や歯科の治療台その他内地での生活が出来ると同じものが
外地の戦場にもなんでも運んでいるのです。
もっとも毎日の敵の爆撃で相当吹っ飛んでいますが・・・。  
参謀にも分担があり後方参謀,兵器参謀・・と上になるほど分化します。
方面軍司令部などは第1課、第2課に分かれていてそれぞれ課長がいるのです。
大体閣下なる方は陸軍大学校をでていて、
在校中に命令などをいかに簡潔明瞭にするかの教育を受けています。
参謀も同様ですが、その起案文にまた朱をいれて要点を漏らさず簡潔に直す
頭脳には感心した次第です。
上には上がいるものだと脱帽しました。閣下は皆参謀を経験します。
名参謀が名閣下になるのでしょう。今村大将は陸大をトップで卒業、
恩賜の軍刀組です。そのような方を最高司令官し頂いたわれわれは幸福でした。



 上記に登場した今村将軍少し書いておこう。
陸軍大将 今村均  ジャワ攻略に第16軍司令官として登場した。
(詳細な経歴は省略させて頂く)
現地住民を苦しめる戦術、そして政策を一切行わずに、巧みな謀略戦と現地住民の協力を得てジャワ島攻略に成功。
日本軍によるアジア解放を真剣に本気で考えていた将軍である。
占領地の軍政についてそれらは史実として残されている。
日本はアジア解放の為に開戦したが、多くの占領地では圧政を求める軍人が多くいた。
しかし今村将軍にとっては自軍の将兵も敵軍の将兵も、
不幸にも戦地となった現地の人も同じ人間であった。
ジャワ島の軍政で証明されている通り、占領地の現地人に強制労働もさせずに、
自由に解放し武器の携帯をも許し、第一にオランダの植民地支配から、
ジャワ島を独立させる事を考え、そして実行した。

そしてジャワで圧政を敷いていた敵軍であるオランダ人にも職を与えていた。

このことは軍中央からかなりの反感を買ったことは言うまでもない。
「厳しく圧政せよ」と命令されても方針を曲げる事無く頑として自身のやり方を貫いた

インドネシア初代大統領のスカルノは、当時独立運動の指導者として
オランダ政府によって投獄されていたが
今村将軍は彼をすぐに釈放してこう言った・・・(ほんとうの話なんだよ)
「これからは貴方は自由の身です。日本軍に協力するか中立立場を
取るか、どちらでも貴方の意思です。仮に日本軍に協力しなくても貴方の財産と生命は完全に保証します。

この言葉によってスカルノは日本軍政に協力を約束したのである。
終戦後、今村将軍は軍事裁判のためにジャカルタの刑務所に投獄された。
もっぱら死刑との噂が広まっていたところに、
スカルノの密使が面会にきた(勿論身分を隠してだろう。)
もし死刑が確定なら刑場へ向かう途中インドネシア独立軍があなたを奪還します
これに対して、今村将軍はなんて言ったと思う?
それはね
自分の為にインドネシア独立軍とオランダ軍が交戦するのは
忍びない、また日本人としてそのような形で生き延びる事は不名誉と考えます。

こうしてこの申し出を断った。
事実、今村閣下に対して酷評する人物はインドネシアには今も皆無である。
終戦後も今村将軍は破滅(自決)に走らず、卑屈にもならず堂々としていたという。
裁判では自らの行いに自信を持ち無実を主張し戦争犯罪の主張には
一歩も引かず反論した。裁判長が妥協を??促しても拒絶し心証を悪くしても
平気であった。。

       「外伝」と共に続く

  第二話完

  日本人の生き様を見させて頂きました。有難う御座いました。by Switch-Blade
ps 「ムルデカ」という映画を観てみましょう。。
# by Switch-Blade | 2004-09-07 03:56 | 「外伝」第一話~第十話 | Trackback | Comments(0)

昭和16年12月8日

 朝から勇ましい軍歌の音楽と共に開戦のニュース。
よくTVなどでやっているでしょう。
私はまだ在学中でしたが、丁度その日は徴兵検査の日でした。
偕行社(陸軍軍人の集会所)で、行かはれ晴れて甲種合格
 帰りにローズハウスという行きつけの音楽喫茶店に寄り、
彼女に頼んでベートーベンの「運命」を掛けてもらいました。
第五運命はその後何回聞いたか分かりません。
よく音楽友達と、「トスカニーニ」だ、やれ「フルトベングラー」だ、「ワインガルトナー」だ
「ローゼンシュトック」だ、などと指揮者によって曲の表現の仕方が違う!
などと議論し合ったものです。
 話は戻りますが、徴兵検査の後、音楽喫茶店で懐かしい音楽を聴いていたなどという
話はまだまだ古き良き時代の名残りでしょうね。
その喫茶店は今はもうありません

そこにいた彼女も亡くなりました。

しかし「運命」の曲は、今でも第一楽章から、第四楽章まで憶えています。
私の青春時代の思い出です。おなぐさみでした。

  貴君からの資料で零戦の事が偲ばれました。
ラバウル西北の「ラクネ」というところで、出動待機をしている時、
ラバウル東飛行場(これが世にいう「ラバウル海軍航空隊」の基地)から
飛び立った零戦と一式陸攻が、丁度「ラクネ」上空でぐるぐる旋回しながら
編隊を組み雁刑になると東南方面に向けて出動して行きました。
ブーゲンビルかガダルカナル方面に行くのでしょう。
海岸に出て、思いっきり「頑張ってこいよ!!」と叫んだものです。
果たして何機が戻ってくるのかと思い、
つい涙が出たのを憶えています。

 「ラクネ」上空ではよく空中戦をやっていました。
高度が高いのでどちらが敵か味方か判りませんが、
片方が撃墜され落ちてきます!日の丸がついていると、
「畜生!!」と思ったものです。
空の戦場とはこういうものなのです、一機一人が失われたのです。

 第一話完  続く


<日本の航空機開発ならび空戦については、
 柳田邦夫著「零戦燃ゆ」に詳しく書かれている。
 色々な史実や叢書と、「戦陣の断章」の著者の記録と
 照らし合わせてみると、大きな誤差などは殆ど無く
 読んでいて緊張感すら覚えてしまう。>
 
                               by Switch-Blade

新!戦陣の断章
# by Switch-Blade | 2004-09-06 21:25 | 「外伝」第一話~第十話 | Trackback | Comments(0)

戦陣の断章 「外伝」

 縁とは不思議なものである。

偶然なのか必然なのか、2年ほど前から親しくして頂いている大先輩がいる。
その方は本を自費出版されており、
タイトルは「戦陣の断章」である。
よくある血なまぐさいだけの戦記物でも、嫌な思いばっかりの回想物でもない
青春真っ盛りの20代前半、当時の健康男性なら誰もが経験した軍隊生活の
ほとんどを戦場ですごして来た著者は、日本人としての誇りを忘れず
ニューブリテン島での戦闘を戦い抜き、
現在は83歳になられ御夫婦共に健在である。

ここではその著者とメールや手紙、またお逢いした時にお聞きした
貴重な資料や体験談をシリーズとして紹介しようと思う。
勿論戦時中のことゆえ悲惨な話や壮絶な戦闘シーンも出てくる。
しかしながらまるで戦場を感じさせない、美しく悲痛な場面もある。
戦力の差がはっきりと出てき始めた昭和17年
ジャングルを上官と部下と共に戦い抜き、まさしく九死に一生を得て
帰還した経験談を纏めた著書に私は何度も涙を流してしまった。
「戦争はもうこりごりだ」著者は言うが、
そこには日本人として最後まで戦い抜いた誇りを壮絶なほどに感じてしまう。
やさしい目の奥に私は日本男児の心意気を垣間見た気がする。

なんと著者はPCを自在に扱い、自分とのやり取りの80%はメールによるものである。
時より興味深いサイトなどを紹介して頂いている。
メールのやり取りは現在300通をゆうに超えている。

自分も日頃から誇り高く粋に生きたいと願っているが・・・(中々うまくは行かないがね・・・)

続く
    
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「戦陣の断章」HPはこちらから
戦陣の断章
# by Switch-Blade | 2004-09-06 00:42 | 「外伝」について | Trackback | Comments(0)