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訃報

 ご存知の方も多いと思います。

作家の角田房子さんが2010 年1月1日に永眠されました。
1960年代より執筆活動を開始した角田さんは精力的な取材と綿密な検証に基づく歴史小説を数多く残されました。中でも1984年に出版された「責任 ラバウルの将軍今村均」では「戦陣の断章」著者との交流も深く、当時の資料提供に協力していた事が文面から読み取れます。当時に興味のある方は一読する事をお勧め致します。

常に史実とその背景を深く洞察した書籍にはとても感銘を受けました。
この国はまたとても大切な方を失いました。とても残念でなりません。

心からお悔やみ申し上げます。
# by Switch-Blade | 2010-03-24 13:26 | 「外伝」ニュース | Trackback | Comments(0)

あっという間に

 あっという間に新年を迎えてしまいました。
時間の経過がとても早く感じる今日この頃で御座います。

なにはともあれ、
あけましておめでとう御座います。
本年もどうぞ宜しくお願い申し上げますm(__)m
# by Switch-Blade | 2010-01-02 13:09 | 戦陣の断章 | Trackback | Comments(0)

移管終了しました。

 無事に移管終了して再び閲覧出来る様になりました。
改めてスタートさせて頂きます。
「新•戦陣の断章」
# by switch-blade | 2009-04-07 13:56 | なんてことはないお話 | Trackback | Comments(2)

 現在「新・戦陣の断章 〜SAMURAI SPIRITS〜」は移転のため閲覧が出来なくなっております。今後同じURLで再度表示されますのでそれまでの間暫しお待ち下さいm(_ _)m
# by switch-blade | 2009-04-01 09:30 | 「外伝」ニュース | Trackback | Comments(0)

「新・戦陣の断章」が移転する事になりました。URLは同じですが、閲覧出来ない期間が生じる可能性もありますので、リンクして頂いておりますサイト様ぁ!どうかリンク削除はしないで下さいませ!

詳しく決まり次第またご報告致しますm(_ _)m
# by switch-blade | 2009-01-31 17:26 | 「外伝」ニュース | Trackback | Comments(0)

謹賀新年

 明けましておめでとうございます。
本年もどうぞ宜しくお願い申し上げますm(__)m
# by switch-blade | 2009-01-01 15:43 | なんてことはないお話 | Trackback | Comments(0)

礼儀は必要

 人にものを尋ねた場合、自分が求めていた結果が得られようが得られまいが礼はつくさなければならない。いきなり見知らぬ人からの質問には、その意図が解らない限り最初の返信で答えを教えないケースがままあるからね。
たった一言「ありがとう」と言えばよいのだが、世の中これが中々出来ないらしい。
私の運営している数件のサイトかもら色々と質問等寄せられるが、聞きっぱなしの人が大変多くて笑える。

このような事を書くと「お礼を求めているわけ?」と、とんちんかんな返信がくるのだが、それも笑える。

礼儀知らずは余り宜しくないのでは?
# by switch-blade | 2008-11-07 12:33 | なんてことはないお話 | Trackback | Comments(0)

 しばらく日本を留守にしています。
衛星放送にて色々なニュースを耳にしますなぁ。
高知県沖での潜水艦とか、グルジアのロシア軍の動静とか、
航空機のトラブルだとか。ともかく色々だねぇ。
近海まで侵入されるとは、事情通諸兄にはお笑い事なのではと思う今日この頃であります。
あえて侵入を許しているわけ。

探知できない訳が無いよぉ。

英語も通じにくい国にいると、ある意味日本での環境の良さが解る。
個人的なお話だがね。
# by switch-blade | 2008-09-15 03:19 | Switch-Bladeの個人的な話 | Trackback | Comments(4)

照りつける太陽

否応もなく訪れる八月十五日。
自分は特に「この日が」と云う訳ではなく靖国に通っている。

それぞれの想いを胸に秘め全国の護国寺等へ足を運ぶ方々は多いと思う。


黙祷!
# by switch-blade | 2008-08-15 17:56 | 「外伝」ニュース | Trackback | Comments(0)

 今年も関連番組等が多くなる季節がやってきましたねぇ。
しかしながら着眼点がずれていたり、結局何が言いたいのか解らないものが多いのかな。
とはいえ自分は制作会社やスポンサーじゃないから番組を創る事は出来ないからしょうがないね。
色々な意見、体験、経験があり、それぞれ年齢別にその体験談の内容は大きく異なる。
そう、人それぞれって事。そうした事を理解していかないとある意味重大な間違いが生じる危険性がある。
以前は色々な団体から資料提供を求められた時期もありましたが、
なんと言えばいいのか…なんでそのくらい調べられないの?って質問が多すぎでした。
正規の専門家に依頼すると高く付くのは解るけど…図書館へ行けば解る範疇。
結果てんで検討違いの内容を書いている物も多くあった。
そんな重要な項目についてはしっかりと調べ挙げてもらいたいと思う。

しかし個人ともなると話は別。
よほどの事がない限り調べようがないのが現実。地方の図書館では無理だったりする。
このブログがそうした方々に微力ながらお役に立つ事が出来れば嬉しい限り。


それぞれの戦場、それぞれの階級、それぞれの時期、それぞれの年齢。

下記のサイトも是非ご覧下さい。ちょっと古い作りのサイトもありますが是非どうぞ!

南太平洋の郷愁
新 戦陣の断章
# by switch-blade | 2008-07-23 11:07 | 南太平洋関連情報の場 | Trackback | Comments(3)

東京大空襲

 今年もまた東京都民、国民にとって忘れる事の出来ない日が訪れました。

黙祷。
# by switch-blade | 2008-03-10 21:44 | 「外伝」ニュース | Trackback | Comments(0)

 実はこの原稿はすこぶる長かった。
もっと多くの周辺事情があるのだけど、ブログにUP出来る量ではなかっため、何とか短く纏めたつもりだ。生々しい事があまりに多すぎて随分長くなってしまい、何とか最後のパートⅢで完結とさせて頂く。
「戦陣の断章」著者からは激励のメールを頂き大いに感謝しております(_ _)

「実戦は映画なんかとは違う」「実際に経験してみなければ実戦の事などわからない」
これは実に的を得た言葉だと思う。映画を観て戦争の全てを知ったつもりでいる人々があまりにも多い。
あれから国家間の戦争状態に突入した事が無い今の私達にはどうやって理解し受け入れていくかがポイントとなるのではないか?
戦史叢書だけでは伝わらない前線の将兵の心情、そして将兵が知る由もなかった高級上層部の作戦指導。各部隊で残されている書籍、そして実際に話を聞く事がもっとも大切であり必要な事と私は考えている。

ある方の父上は大陸での戦闘を経験し無事に復員する事が出来たという。
戦後、戦争中の話は一切皆無であったとの事だ。
そして、数十年後入院先の病院で痛みと昏睡状態に陥っているとき、うわごとだけでその経験を叫んでいたという。なんとも切ない話ではないか!戦闘時の模様を叫んでいたのである。

ベトナム戦争では兵士の神経衰弱、麻薬汚染が問題になっていた事は誰でも知っていることだが、戦争は戦争で何処の国でも相当の打撃を受け、勝っても負けても相当の後遺症を残す。
世界が戦争の愚かさに気付く時が訪れる時、それは一体いつになる事やら皆目見当も付かない。いまだに大小多くの紛争が続けられているのが現状だ。
# by switch-blade | 2008-02-10 11:55 | Switch-Bladeの個人的な話 | Trackback | Comments(0)

 出撃数日前、マニラの日本人経営の居酒屋、店名は皆さんもご存知だろうと思う。
階級の違う同郷の戦友が集まり最後の晩餐が始まった。
誰も絶望感など漂わせる事無く、それぞれの立場、戦況の事を・・・そして内地の家族の事が話題となった。マニラ湾は既に敵に包囲され、敵潜水艦がウジャウジャしていた訳で、船舶艦船の情報は既に筒抜け状態となっている事など誰でも知ってた。現地人の二重スパイはそこら中にちりばめられたマニラ市はウィーンさながらのスパイ天国であった事は容易に想像できる。
この晩餐には「とと」の親友も参加していた。彼は左腕の肉が飛び散るほどの重症を受け、筋肉がすっかり削げ落ちていた事が判明した。
全員美保海軍航空隊に所属してはいるものの、飛行機乗りではなかった。
陸軍にも船舶部隊はあり、航空隊所属でも艦隊勤務がある。
大中小輸送艦、駆逐艦、駆潜艇など急造された木製又はコンクリート、帆船にも及ぶ。

いざ出撃。

数分も経たぬうちに敵潜を察知。厳戒態勢に入る。
「とと」とは自分の祖父の事なのだが、明治44年生まれの予備役であった為、このことが当時どれだけ人員が不足していたか容易に想像できるであろう。
ましてや昭和20年2月26日の戦死となるとその戦場と艦船を絞り込む事が出来る。

最後の手紙は検閲済みの赤い判子が押されていて、内容は至極簡潔に書かれていた。
しかしこの簡潔な文章の中には相当な想いが隠されていると感じた。

中々口が重い親族に私は無理を承知で話を聞きだした。
その艦艇は撃沈を免れ、若干数の生存者がいたのである。
急遽編成された美保海軍航空隊は、三重空やそれよりも古い基地から猛者が教官として派遣されている。要するにキツイ基地であったことと思う。

「こちらは至極元気です。夜食など勿体無い位です」と書かれている色褪せた葉書を見ると自然と涙がこぼれてくる・・・昭和19年は糧秣などほんのわずかだ。

先ずは雷跡を確認。放射状に向かってくる。難なくかわす。
そして次が襲ってくる。それほど速力の無い艦船では交わすのが難しい。
暫くすると雷撃機が襲ってくる。艦橋、銃座から金切り声が上がる。
甲板では皆が必死だ。十分な弾薬、高角砲も少なく射撃は制限されるわけだが、
「撃ち負けたらおしまいだ!」「撃ち負けたら殺られてしまう」

そして、数発の魚雷が命中した。
雷撃後、艦爆の攻撃もあったと思う。勿論戦闘機の銃撃も。

数時間持ちこたえたその時、弾薬が尽きた。
「とと」私の祖父は、炸裂の衝撃で海に投げ出されてしまったという。無念だ・・・
「何も出来なかったんです」と語った戦友は罪の意識に苛まれ終始口数が好くなかった。
私の親戚や家族は彼に対し「本当によく帰って来たね。本当に良かったね!」
淋しくても辛くてもこうした言葉をかけることの出来る家系に生まれたことは自分にとって誇りですらある。

沢山の人が戦死したあの戦争を、自分の脳に刻み込み、この国にはそうした歴史があったと云うことを理解しなければならないと改めて実感したこの数日間であった。
あえて船舶名は記さない。
当時の壮絶な時代を思うと、現在の飽食の時代は呆れることが多すぎて失笑してしまう。

祖父の写真を眺め、短い手紙を何度も読み返している自分はここから学ばなければならない。


これは戦陣の断章ではなく、自分の祖父のお話である。
まだ続きがあるかもしれない。期待しないで待ってほしい。by Switch-Blade
# by switch-blade | 2008-02-03 23:03 | Switch-Bladeの個人的な話 | Trackback | Comments(0)

愛知県在住の姪さんへ。

2007-08-27 21:56 にコメント頂いた「愛知県在住の姪」さんへ。

調査したところ、ニューブリテン島の「ダム」ではなく「タム(河)」という所ではないかと思いました。お役に立てればよいのですがm(_ _)m


2008-01-13追記
元々現地人がつけた河の名称、当時の日本軍が付けた又は聞いた名称によっては若干発音などが異なりますので「ダム」と聞こえたり「タム」と聞こえたりするようです。
当時の地図を見ると、西部ニューブリテン島で兵団主力が転進中に渡ったであろう河は「タモ河」(カライアイの西)とのことで、おそらくこの3つの河は同じ河だと思います。

著者からのご教示を記しましたm(_ _)m
# by switch-blade | 2008-01-10 22:24 | 南太平洋関連情報の場 | Trackback | Comments(0)

新年

 あけましておめでとう御座います。
本年も「戦陣の断章」グループをどうぞ宜しくお願い申し上げますm(_ _)m


  by Switch-Blade
# by switch-blade | 2008-01-03 16:05 | 「外伝」ニュース | Trackback | Comments(0)

 「戦陣の断章」&「とと~」等々随分と更新していなかった。
あれから二ヶ月ようやく身辺が落ち着いたので、さて再開と行こうか!

自分の祖父のお話。「とと!勝ってこいや!」の原稿は上がっているんだけど、なんとなくUPしにくいのです。色々と紐解いていくと更に色々な事が判明し「激戦」の様子がまるで目に浮かび、現在とのギャップに少々戸惑いを感じてしまう。
 今の日本は日常で爆撃される事も、弾が飛んでくる事も無い時代だからなおさら心痛を感じてしまう。(交戦状態では無いという意味。)

「戦陣の断章」著者ブログも好評なのでそちらも是非観ていただきたい!
http://www.blade-arts.net/
リンクページからどうぞ。
# by switch-blade | 2007-12-21 12:23 | Switch-Bladeの個人的な話 | Trackback | Comments(0)

祝!9月10日!

平成19年、今年も九月十日はという日を迎えました!
9月10日は「戦陣の断章」著者、塚本氏の誕生日なのです。
しかも年は違えども九月十日という日は、塚本氏が所属していた
歩兵第百四十一聯隊の軍旗を親授された日でもあります!
このような偶然があるとは、何か因縁のようなものを感じてしまいます。

さて、改めて・・・

お誕生日おめでとう御座います!心からお祝い申し上げます!!

氏は昭和十七年十二月八日徴兵検査を甲種で合格され、晴れて帝國陸軍軍人の道へ。
福山の歩兵第百四十一聯隊に入隊しニューブリテン島西部に位置するマーカス岬へ転戦。
マーカス岬では物資不足の中壮絶な対戦車戦を経験し、その後ラバウルまでの道のり約600㎞に及ぶ地獄道、地獄街道とも呼ばれた「カ号作戦」に基づく転進を経験されました。
このお話は本サイトでも詳しく記してあります。

本日より当サイトの名称は、86歳「戦陣の断章」外伝に変更致します。
# by Switch-Blade | 2007-09-10 17:35 | 「外伝」ニュース | Trackback | Comments(3)

 昭和20年8月15日 各地ではラジオから流れる放送に国中が涙した。
ノイズ交じりのこの放送は「玉音放送」と呼ばれている。これで戦争が終わり生活の苦しみから解放されると思った人もいたであろう。しかし皆が手放しで喜んでいた訳ではない。少なくとも日本の敗戦が知らされたのだから・・・

 少年の家族はこれで「とと」が帰ってくる!!と心待ちにしていた。
当時全国各地で同じように肉親の復員を心待ちにしていた光景が目に浮かぶ。
それから数年後、その地区の部隊が帰ってくるとの報告が入った。
少年や家族や近所の周囲の皆が自分達の父や肉親の帰還をまだかまだかと複雑な思いで待っていたという。

 そしていよいよその日がやってきた!!少年とその兄弟、そして大黒柱不在の家庭を守っていた妻の喜びと不安の入り混じる思いには胸が締め付けられるようだ。
 あの日、呉に向った「とと」呉から艦船でフィリピン(戦後に知る)へ向かった「とと」

「皆がいい子にしていれば、ととは帰ってくるよ!」

そう、子供達はしっかりと言いつけを守り、ととの帰りを待っていたのである。

「とと」を見送ったあの駅へのまっすぐな道。あの道から「とと」が帰ってくるんだ!!
少年と兄弟達、そして彼の妻は、今か今かとまっすぐなその道をじっと見つめていた・・・

「あ!!!帰って来たぞぉ!!!」近所の家族達も遠くから歩いてくる小さな人影を見つけて一斉に駆け出した!
知った顔が続々と帰ってきたのだ!なかには既に大喜びで抱き合う家族の姿もあった。

「ととは・・・」「ととはまだかな・・・」胸が締め付けられるような瞬間であった。

最後の兵が家族と抱き合い泣きながら抱き合っていた・・・

「ととは帰ってこないのかな・・・」「どうしたんだろう・・・」
その不安は想像を絶するものであったろう。胸が締め付けられるようだ。
幼い兄弟の目にはだんだんと涙がたまりにたまり、堪えに堪えた大粒の涙がどっと頬を流れ落ちた。
それを気丈に見守る少年と妻の元へなじみのある顔が近づいてきた・・・
その男性は「とと」の戦友で同じ艦に配属されていた人だった。

「どうにもできなかったんです・・・申し訳ありません・・・」

少年と家族は全てを察した・・・
皆、大声で泣いた。そして「とと」の戦友の帰還を泣きながら「心」から喜んだ。
彼の家と同じように肉親が帰らなかった家庭もそりゃあ沢山あった。
大勢の人達が泣いたり、喜んだり、笑ってみたり、抱き合ったり、悔しがったり、励ましあったりと・・・表現できる全ての感情が溢れていたに違いない。

そして「とと」の戦友は彼の最後の瞬間を目撃していた数少ない一人でもあった。
出撃2~3日前、マニラの居酒屋で最後の晩酌を交わしていた。同じ郷里で同じ艦、階級も同じ。
「お互いに生きて帰れないだろうな」「ともかくしっかりやらにゃならん」
といった会話が交わされ、互いに郷里の家族の事を話あったという。

最後の晩餐

そして出撃した。


続く・・・
# by Switch-Blade | 2007-08-15 14:11 | Switch-Bladeの個人的な話 | Trackback | Comments(0)

昭和18年某月のこと。一通の文書が役場の人から届けられた。
「ああ、とうとう俺にも来たか」
それは旧帝國海軍の予備役兵に届けられた召集令状である。(召集令状とは役所の人が直に持ってくる物で、郵便で運ばれるものでも、玄関に張られるものでもない事はご承知の通りですが念のため。)
明治、大正と海軍大佐だった家系の影響か、彼はハワイ、マレー沖海戦時以前既に徴兵検査と訓練を終え予備役となり家業に専念していた。その彼に届いた役場からの召集令状は悲痛なものととらえるか否か?それは当時を生きていなかった私にも想像することは難しくはない事だ。
詳細な文面はあえて記さないが「XX月XX日にXXに出頭せよ」とこのような文面である。

家族、親戚が集まり「親族会議」ともいうべきか「祝!出征」ともいうべき会合が行われた。
しかし大人と子供の現実に対する温度差は現代と同じく当たり前のように存在していた。
大人達はみな食料配給や物資不足から希望的観測はしていなかったのはいうまでもない。
それは夜に遠くの空がまるで昼間のように明るく、そして真っ赤に染まっていた現実から自ずと日本の現状を察していたのではないかと思う。
親戚、家族、近所の人々が沈痛な面持ちを隠しつつも「しっかりやってきてください」「無事に帰ってきてください」「お国のために」などという言葉が混じり合った複雑な気持ちだったのではないだろうか?

父の傍らにいた少年は言った。

「とと!!勝ってこいや!!」

父親は絶対的な存在であった当時としては、自分の父が勝ってくると思うのは当たり前な事だ。

そして彼は言った。

「ああ!勝ってくるとも!」

子供達が皆父親に抱きついてこう言った。

「とと、絶対に帰ってきてね。絶対にだよ」 泣きながらすがりつく子供達。

彼はまだ小さな娘を背中におぶり、あやしながらこう言った。

「お前達がよい子にしていれば、ととは必ず帰ってくるよ。だから皆よい子にしているんだよ。」

そして妻はこの光景を気丈に見守るしかない。小さな子供達と、自分が一生を共にしようを決めた日本男児。そしてお腹には小さな命を身ごもっていたのである。

彼は数日後呉に向かうために駅に向かい最後の別れを少年に言った。言葉数は少ない。

「行ってくるぞ。皆をしっかりと守るんだぞ。」

きりっとした制服に身を包み駅へと向う真っすぐな道を黙々と歩いていった。
彼にとって父の、結局それが最後となる訳だがその「顔」には一点の曇りもなかったと元少年は語る。
「何処までも続くような駅までのまっすぐな道。父の背中を、父が見えなくなるまでずっと見つめていました。今思えば腹を決めた人間の姿というものを見たと思います」
「あの時のまさに日本男児たる父の顔と背中は忘れる事はないでしょう。しかし当時を振り返ればそれは子供から見た視点にすぎず、残した家族に対する心配と不安は皆無であるはずはない。」と語っている。

※ 「とと」とは、当時の子供達が使う一般的な父親に対する愛称である。

続く
# by Switch-Blade | 2007-08-11 12:43 | Switch-Bladeの個人的な話 | Trackback | Comments(0)

 新カテゴリーとして「南太平洋関連情報の場」を加えました。
掲示板にすると荒れるのでこのコメント欄を使用して各情報交換の場として御使い頂ければ幸いです。勿論ブログですので実名を避け、「それなりに匂わすハンドルネーム」で書かれると返信も多いのではないでしょうか?このカテゴリーについては頻繁にチェックしていきたいと思いますので皆様どうぞ宜しくお願い申し上げます。

追記・・・
まるで関係のないトラバ&コメントは私の判断で削除させて頂きます。
# by Switch-Blade | 2007-07-26 12:14 | 南太平洋関連情報の場 | Trackback | Comments(0)

「ツルブからの手紙」 

 「ツルブからの手紙」が届きました。微力ながらこの本の出版に係る事ができました事をこの場をお借りして御礼申し上げます。関係者各位皆様には大変な作業の連続であった事とお察し致します。本当にご苦労様でした。早速隅々まで読んでおります。

西部ニューブリテン島の戦闘は、同方面マーカス岬に上陸した米海兵隊を撃退すべくこの岬周辺に逆上陸を敢行した戸伏大隊長率いる歩兵第百四十一聯隊第一大隊から始まった事は前述であります。そしてその後、第二、第三大隊がこのツルブ方面で激しい戦闘を戦ったのです。この第二大隊には「戦陣の断章」著者と同期生の藤山氏が大隊副官を務めており、あの過酷な戦闘、そして西部ニューブリテン島に展開していた全部隊を「カ号作戦」に基づく転進にて一路ラバウルを目指すことになったのです。
直線距離で400キロほど、それはあくまで直線距離でのことで、およそ600キロの想像を絶するジャングルをラバウルまで徒歩で辿り着き、態勢を立て直し敵の総攻撃に備える。
これは我々には到底こなせない作戦であり、生きて帰ることなど不可能に近いものであった。
そしてラバウル到着後の戦闘訓練では、「ツルブからの手紙」主人公氏のご兄弟の方が、著者の指揮下訓練に励んでいた・・・

少々ストイックな私Switch-Bladeからすれば、不思議な縁と云うものを感じざるおえないわけです。
# by Switch-Blade | 2007-07-19 20:19 | 「外伝」ニュース | Trackback | Comments(0)

今日偶然に・・・

 身内のつてでとある有名な寺院からある書籍を頂いた。(寺院名は秘密だ!)
昭和50年代にほんの数千部発行されたものである。(ここまで書けばタイトルはバレそうだが)それをこの私にと言われ手にしたときの興奮は隠せなかった。第一声「アー!!!こっ!これはぁぁぁ!!」つい興奮してしまった。それは帝國陸海軍全艦船の記録が網羅されておりとても分厚く重厚な書籍だった。
全艦船(タンカー、輸送船、海防艦、潜水艦、小型艦も含む)の活動記録、最終記録、そして最後の緯度経度までもが記されていた。この中に私の祖父そして親戚達の艦船を見つけることは難しい事ではないであろう。 戦陣の断章でも記されている艦名もいとも簡単に見つけることが出来た。これは私に新しい知識を吹き込んでくれる悲しくも切ない書籍である。

 仕事柄こうした機会に恵まれる事が多々あるわけだが、全ては無理だとしてもできるだけ多くの場所を訪れたい。それは日本に関係した土地に限ったわけではなく世界全体での話。
そう、あの当時は国民皆が苦労をして一生懸命に働き、戦い、銃後を守っていた時代である。今のように個人を優先に出来る時代ではなかった。国家と国家の鬩ぎ合い、騙しあい、よってたかって小国に難癖をつけ利権を奪うという中世さながらの出来事が当時はごく当たり前の事で、それは現在でも続いている事実を私は勝手に調査し研究し続けたいと改めて感じた次第である。

 by Switch-Blade
# by Switch-Blade | 2007-07-05 22:35 | Switch-Bladeの個人的な話 | Trackback | Comments(0)

ツルブからの手紙

 ツルブからの手紙

西部ニューブリテン島ツルブとはマーカス岬に派遣された歩兵第141聯隊第一大隊が、
第二、第三大隊と共に駐屯し激戦を交わしていた地域である。(詳しくはまた後ほど)
第一大隊がマーカス岬の防衛としてこの岬に上陸していた米海兵隊を岬から逆上陸し撃滅するというまさに過酷な任務であった事は前述の通り。そしてツルブ方面での同聯隊の戦闘もマーカス岬の戦闘と同じく壮絶極まるものであった。

偶然にも同じ聯隊で勤務されていた方の関係者様から新・戦陣の断章宛に一通のメールが届いたのは彼此半年以上前の事である。
その内容は、フィリピンバターン攻略からツルブ戦そしてカ号作戦に基づく転進の詳細を知りたい・・・と云うものであった。そして詳しく聞いてみるとどうも色々と繋がりがありそうな予感がしてきたのは云うまでも無いことだ。戦陣の断章の著者にも改めて資料などをお借りし、私独自のルートで調査。快く資料の提供を惜しまなかったつもりだが、日を追うごとに新たな事実が判明していた。しかしそれは一つの確信となって今日に至ったのである。

新・戦陣の断章~SAMURAI SPIRITS~のインデックスに戦陣の断章という項目があり、その中の第21章「幹部候補生教育のこと」という章があるのだが、著者が乙種幹部候補生(乙幹)の教育指導の任を命じられ指揮していたその中にその身内の方がいらしたのだ!
そしてその方は著書「戦陣の断章」の挿絵を書いていたということがのちに判明した!
嗚呼!なんという偶然であろうか!

「ツルブからの手紙」で戦地から手紙をご子息に宛てた手紙を書いていた主人公の方は残念ながら恐らくこのツルブの激戦地で戦死されたとのこと。一言では言い表せないこの事実に鳥肌が立つ想いである。

さて、この「ツルブからの手紙」の原稿を読ませて頂いた。
私が提供した資料のコピー代は何故だか私が負担したけどね。
結構苦しいみたいなのか、身銭斬りたくないけど情報が欲しいってとこだよね。

当時の手紙が残っているなんてなんという奇跡であろうか!違うね。
その手紙も大変ユニークな内容で戦地の様子や本土に残してきた家族に対する切なる気持ちが入魂されているものであった。それは「絵文字」の元祖といえるだろう。絵文字はその当時からあったのだ!!遠く離れた戦場から送られたその手紙に私は羨ましくさえ思い協力することに決めた訳である。

「まぁ無料奉仕だったね。依頼されたこちらの資料のコピー代すら自腹だったしね」まあいいか。

事実、高級将校でもツルブ、マーカスからは手紙は送れなかったのである。正確に云えば、ツルブ方面は然り、マーカス岬の戦闘開始後は将校でさえ郵便物など送れる事は無かった。ということだ。

戦端が開く前に贈られたささやかなその手紙。筆無精の私からするととても羨ましい限りである。

 昨今、「同じ戦場にいたのなら顔見知りのはず」と安直に思いがちであるが、これは大いに間違いである。軍隊とはなんだかんだ言っても巨大な組織であるわけで一人一人の名前など同じ各小、中、大隊の周辺幹部くらいしかわからない。現在の大手企業とほぼ同じだと想像していただければ納得できると思う。

 もし私が偶然にも戦陣の断章の著者に出会わなければ・・・
 もし私の家系に旧陸海軍将兵、将校、軍属がいなければ・・・
 もし同じ方面で私の祖父や多くの親戚が戦死していなければ・・・
 もし私が何らかの理由でこうした内容に興味を抱かなければ・・・

全てが忘れさられていたのでは無いだろうか?

このツルブからの手紙でまた新たに交友関係を築くことが出来たのは、微力ながら御役に立てたのだなと関係者各位に御礼を申し上げたい!
だが、主張経費は頂く(笑)

「ツルブからの手紙」のイベントは好調で多くの方々が詰め掛けたと連絡があった。
ほんの小さな微力がこの本の出版に役立つことが出来て幸いである。
関係者各位ご苦労を労いたい気持ちで一杯である。

by Switch-Blade




# by Switch-Blade | 2007-06-27 21:34 | 「外伝」ニュース | Trackback | Comments(2)

自習時間

 最近更新を控えておりました。もっとここで紹介したいのですが執筆にあたり出し惜しみしております(笑)一般にブログ日記に記すには勿体無い感ありと感じ、新・戦陣の断章の整備と執筆に専念したいところです。
先日同方面ツルブで戦死されたご遺族のかたの依頼で執筆活動をされている方から電話がありました。「全て順調に進んでいる」と朗報。
部隊編成図や聯隊史など微力ながらご助力できた事が何よりも嬉しかったです。

 さて本日は戦陣の断章の著者から丁度この時期の出来事を送って頂きましたので記しておきましょう。当時のこの時期の事を反省録に詳細に記されているそうです。

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久留米第一陸軍予備士官学校に在校中、毎晩の自習時間にその日にあったことについて
「反省録」に実施事項と自己反省を記載した。(抜粋です。)

6月14日(日)雨


<週番士官殿の注意事項>
「敬礼の厳正」 一般に声小さし。敬礼後、指示あるまで次の動作に移るべからず。 

<反省>
本日の夜、自習室において雑誌(酒保で買ったもの)を読める候補生あり。
いやしくも自習室は、われわれ候補生の修養の場なり。
かくのごときは断じて許すべからざる行為なり。
すべからく将校生徒の衿持を忘るなかれ。
いよいよ梅雨の候となれり。健康に最も注意を要す。

6月15日(月)晴

<行事>、
午前 高良台第二地区において・・・「時間に余裕なき場合の擲弾筒分隊の陣地占領及び防御」午後 中隊長殿の学科 「作戦要務令」講義  於第2中講堂
夜間 「対戦車肉薄攻撃に関する映画」上映  於講堂

<中隊長殿の注意事項>
1 中隊全員 精神の緊張を欠く。
1 淡白率直なれ。

<週番士官殿の注意事項>
紛失物多きにつき、各人一層自己の所有物を責任をもって保管せよ。

<反省>
自習室において雑誌を読めるO候補生は、遂に重謹慎の罰を受けたり。入校以来1か月余、
第二中隊しかも第二区隊よりかかる者を出したることは中隊の恥なり。全員よろしく前者の轍を踏まぬよう諸規定の履行をなすべきなり。
-------------------------------------------------------------------------------------------    
著者曰く、「今改めて振り返れば随分堅苦しいことを書いたものだと、今読んでみると微笑んでしまう。当時はカタカナ書きでした。」との事だ。

by Switch-Blade
# by Switch-Blade | 2007-06-15 08:48 | 戦陣の断章 | Trackback | Comments(0)

5月10日

 学校の卒業はご存知のとおり大学以下昔から3月末と決まっている。
ところが・・・ 昭和16年・・・旧制の大学も高等学校も高等専門学校も12月末に卒業という異常な学制が施行された。つまり三ヶ月繰上げ卒業(第1回)である。各戦局の悪化に伴い、初級尉官補充のため学校教練を受けた学生を早急に充当しようとする方策であった。既に私も在学中に徴兵検査を受けて甲種合格になっていたのでいつでもご奉公出来る体制になっていた。
 
 12月26日に変則卒業式が行われ、楽しかった学園生活に別れを告げ、同級生42名(入学時は50名)もそれぞれの本籍所在の連隊に入営のため帰郷して行った。旧友の行き先は知る由もない。私も当時僅かの期間であるが在鶴見の会社に入社していた。
その後、本籍が広島県であったためか、私にもいよいよ在福山市の歩兵第141連隊補充隊に2月1日入営すべしとの通知が届いた。会社から僅かな給料と餞別を貰って退社した。

 昭和17年2月1日からいよいよ帝国軍人の生活が始まった。
その頃本隊は既にフィリピンの戦場に行っていたため、福山の連隊は留守部隊になっていた。
この本隊が・・第65旅団歩兵第141聯隊であり、いずれ部隊はラバウルに移動駐留することになる。 訓練を受けて見習士官になっていた私は、17年末に部隊本隊に追及し、既述のとおり各地で苦闘することになった。 

昭和17年の今頃と同じ空気が私の心をワクワクさせている。
福山市郊外、芦田川の河川敷での擲弾筒訓練を最後に連隊での訓練を終了し、上等兵の階級章と座金をつけて、5月10日には久留米の予備士官学校に派遣されるのである。
甲種幹部候補生一同は、一人ひとり隊内の下士官室を訪れて

「A候補生参りました!!長い間ご教導有難うございました!!」

と下士官一同にお礼を申しあげる。

 「A頑張れよ!ところで偉くなって帰ってきて俺達をいじめるなよ・・」

と、皮肉たっぷりに笑っていた。
 
久留米を卒業し帰隊すると、教えを受けた下士官たちは皆戦地に行ってしまっていた。
そこには入隊間もない初年兵達の訓練が待っていた。 新米見習士官は、早速教官として3キロほど北にある深津の高地に毎日引率して行き、各個教練から分隊教練、果ては小・中隊教練まで指導に明け暮れた。 どれだけ戦場で役に立つか、自分のことさえ判らない矛盾を感じながら・・・。然し精一杯努め上げたつもりの満足感はあった。

 大晦日も迫っていた頃、とうとう私にも野戦行きの命令が来た。私が教導してきた初年兵も一緒である。一同を集め、

「いよいよ来たな!お互い戦場は初めてだ!どこの戦地に行くのか私にも判らんが、みんな!頑張ろうな!!」

「ハイ!!」

と大声を張り上げてくれた。

この年は、将校生徒への憧れと下士官、古兵への気兼ねで複雑でしたね。
実際の上等兵ではないだけに面映い気持ちもあったのです。 (見習士官までの仮の階級ですから) 班付き下士官、古兵の目がなんとも嫌でした。特別いい軍服も軍帽も与えられるわけでもなく

「早く5月10日が来ないかな」

の毎日でした。

 「お前達の上衣(うわぎのこと)の裏の名前を見てみぃ。そこにある先輩も一緒に連れて行ってやれぃ涙を流して喜ぶぞ!」

上衣の裏には、過去にこれを着た兵の名前も毛筆で5人くらい書いてあった。しかしこれに対し笑うわけにもいかない。

 「ハイッ!」と言って逃げるようにして自室に戻る。
 
 下士官や古兵達のやっかみは嫌というほど判る。そこがやはり煩悩を持った人間であり、また制度上割り切らざるをえない軍隊の掟でもあった。

 
 私が初年兵当時に教えを受けたM上等兵は、ラバウル北にある小さい島で戦死されたことを知った。後日、戦死者名簿を見ると二階級昇進して軍曹になっていた。 立派な手柄を立てたのであろう。嬉しかった。 一緒に行った初年兵達は、戦場が違うため詳しい消息は判らず仕舞いだが、それぞれ活躍してくれたと信じている。
# by Switch-Blade | 2007-05-10 11:50 | 「外伝」ニュース | Trackback | Comments(0)

詐欺!!

 振り込め詐欺などそれら関連詐欺の中において、「戦友詐欺」という種類のものがある。要するに「お父さんとは戦友でした。」「ご主人とは戦友でした」と言って高額な書籍や骨董などの品物を売りつけるという手口。これは受け身側のノスタルジックな部分を突いてくる極めて卑劣な手口である。「戦友でした。」などと言われれば見知らぬ人物にも「懐かしさ」を覚えてしまうし又、覚えようとしてしまうのが現実だ。こうした詐欺は今に始まった事ではない事はもちろんの事、今後更に増えるのではないか?と私は予想している。

 一体こうした手口から身を守るにはどうしたらよいのか?
例えば仮にあなたの祖父A氏の戦友と称する人物が来たと仮定しよう。
まず私たちにできる事は、祖父A氏が一体いつ?どこの戦場に出征したか?
大体この辺は合わせてくるはずなので更に詳しく知っておきたい。
それには方面軍、師団、旅団、連隊、大隊、中隊、小隊名、各部隊長名は把握しておくと心強い。写真などがあればと思うが、実際に前線で撮られるケースは極稀。
そしていくら戦時中だからと言って直ぐに前線に投入される事はまずあり得ない。
一定の期間は内地にて訓練を行う。期間の長短はどうであれ訓練を行う。
その場所も知っておきたい。

ある程度の事が頭に入っていれば、偽物はすぐに解るはず。
勿論巧妙に辻褄を合わせてくる場合もあるが、高額な物品を売りつけようとしてくるならばこれは偽物であってほしい。事実生活に困りなんとか「旧友を頼りに」といった事も勿論考えられるので、すべてを疑う事も避けたいのが心情だ。

また疑心暗鬼になり情報交換の妨げになる事だけは絶対に避けたい。

先日の高知県内で発生した詐欺事件の記事を読んで憤激していた Switch-Blade でした。
# by Switch-Blade | 2007-05-04 12:17 | 「外伝」ニュース | Trackback | Comments(0)

 現在の日本ではバナナ、パパイヤ、マンゴー、エンゼルフィッシ、カンガルー、グッピー、鰐などいずれも動植物園に行けば簡単に見る事が出来る。然しこれらが自然に生え、住んでいる姿を見た者はそうはいないだろう。前者の植物は、まさに自然に生えている。ただし、土民達が自宅の周辺で植栽しているものは個人の所有物で、違った印象を与えている。
そう!盗んだら大変だ!

戦闘中に突然カンガルーが跳び出してきて驚かされたこともあった!!

カ号作戦に基づく転進中に喉を潤した各河川にはエンゼルフィッシとかグッピーがたむろして泳いでいた。

自生の果物たちには飢えを凌いでくれるのに少しは役に立った。
そしてトーマに落ち着いてからの現地自活では突然極楽鳥が下りてきたのには眼を見張った。突然一羽の極楽鳥が下りてきた姿には天使の使いかと錯覚させるほどである。
色彩は文字どおり見事というほかない!
現地人達がシンシン踊りをする時の飾りには、頭の装飾にこの羽を好んで使っていた。

ニューブリテン島の戦場で驚いたのはなんといっても「蟻の巣」であろう。
この蟻は椰子などの樹の根元に、丁度カルメ焼きのような大きな巣をつくる。
この中で蟻は一生の生活をするのである。これを崩すと大量の白い蟻の子がゾロゾロとこぼれ落ち、現地自活用に飼っていた鶏はこの蟻を喜んで啄ばんだ。
蟻にはお気の毒だったが・・・

椰子の樹にはよく蟻が上り下りしていた。おそらく実あたりの樹液を吸っていたのであろう。
現地人に青い椰子の実を取ってもらうべく頼んでもOKしてはくれなかった。そう!このありが原因なのだ。蟻といっても大きな赤蟻で、喰いつかれたら首がもぎれても離さないくらい獰猛だからである。

 今振り返って・・戦闘以外でもいろいろ貴重な見聞をしてきたが、今でも不可解なことはどの戦場にも無数の軍馬が調達されて、それぞれ活躍して貰ったのに戦後一頭も復員していないことである。現地に置いてきたのか、殺してしまったのか可愛想でならない。
 「愛馬進軍歌」などという軍歌もあったのだが・・・。非道だ。


著者からのメールを転載させて頂きました(__)

軍馬について以前私Switch-Bladeが調べた事がありますので少々追記させて頂きます。
戦後軍馬の帰還はごくわずかではありますが、秘密裏(?)に内地へ輸送されたそうです。
勿論全てではありませんが・・・何とか内地へ輸送しようという試みが密かに行なわれたそうです。各地から出港する復員船に如何にして紛れ込ませるか?当時の関係者は色々と思案したようです。「人間のほうが大切だ!」と非難される事も多々あったそうですが、それら非難に対しては色々とユーモアを効かせた返答で「うむ・・それならば宜しい・・・」というようなやり取りがあったそうです。

しかし戦闘中にカンガルーとは!猛烈な砲火の洗礼を受けたカンガルー!さぞかし驚いたことと思います。


by Swich-Blade
# by Switch-Blade | 2007-04-29 11:38 | 戦陣の断章 | Trackback | Comments(3)

心機一転

 何かとドタバタ忙しい季節。私、Switch-Bladeも例外に漏れず慌ただしい日々を過ごしております。GWの天気もまぁまぁとの事で心機一転には相応しい時期が訪れました。この数ヶ月「辛抱!辛抱!」と自分に言い聞かせた結果、ようやく公私共に新体制にてスタートする運びと相成りました(^^)今期も「戦陣の断章」をどうぞ宜しくお願い申し上げます。
 遥か彼方「遠方の友」達に日頃の苦労を癒す休暇が訪れますように!!

by Switch-Blade
# by Switch-Blade | 2007-04-27 20:16 | 「外伝」ニュース | Trackback | Comments(0)

「只今から陸軍甲種幹部候補生の卒業式を挙行する!!」

昭和17年10月30日、学校本部前に上から下まで新品の見習士官が勢揃いした!
さすがに華やかである。 これだけの服装を学校で保管してあったのだ。

暫くして校長閣下がお出ましになる。

 「只今から陸軍甲種幹部候補生の卒業式を挙行する。」と学校副官の言葉。
そして校長閣下が壇上に上る。 「兵科見習士官OOOO] 「ハイッ!」 といって両手を差し出し卒業証書を受け取り挙手の礼をして下がりキチンと自席に戻る。
 
なんとも晴れがましい。1日で幹部候補生から見習士官に肩替わりをした瞬間である。
全員終わるや校長閣下からのお言葉である。

 「・・・・・貴官達は今日から帝国陸軍の盾となってもらうことになろう。
ここで習得した技能を思う存分発揮して活躍してもらいたい。・・・」

 
・・・身に沁みた・・・
 
 そして兵科見習士官一同は、それぞれの原隊に復帰し、その後数ヶ月して各方面の戦場に出征していった。 文字通り消耗品的存在だったわれわれ同期生は、各方面の戦場で活躍し、大方が戦死していったのではなかろうか。
 
 戦後の情報によれば、案の定、7期組を含む大正10年生まれのわれわれは
日本の人口で最も少ない年代である。(11年生まれ、9年生まれがこれに次ぐ。)

 われわれに檄をとばしてくれた中村次喜蔵校長閣下もその後中将に親補され、第112師団長として中国戦線で活躍されたが、終戦時に現地で自決されたとのこと。
当時の中隊長、区隊長もそれぞれ進級し、各方面の戦場で奮闘されたことであろう。
上司、同期生達の生死についての情報は皆無に近い状態である。

                       

 代筆by Switch-Blade
                  
# by Switch-Blade | 2007-04-02 11:55 | 「外伝」ニュース | Trackback | Comments(0)

スケープゴート

 2.26 それは股肱の老臣が殺戮された日。そして多くの青年将校がスケープゴートとされた日である。国家機密とは我々民間人には到底想像の付かない強烈インパクトが隠されている。
数々の資料、著書、映画(映画は資料の内には入らんか・・・)などで71年前のこの日の事は紹介され且つ研究されているので、わざわざ自分がここで詳細を記す必要もないと思う。事実、この日の出来事に直接係わった人物には出会った事が無い訳で、この件に関して偉そうに講釈を云々と垂れる気には到底なれない。

ただ私見を述べさせて頂けるならば、やはりタイトル通り「スケープゴート」・・・か・・・と言わざるおえない。恐ろしく込み入っている事件だが、兵を動かしその責任を動いた兵に罪をかぶせたとでも言うべきか・・・居留民保護の為破竹の勢いで吉林に出兵しその戦火は上海にまで飛び火していた延びきっていた中国戦線。そして国内では政治の腐敗と社会不況で多くの農民が困窮で喘いでいた。義憤に燃えた一部の青年将校と急進派は「尊皇討奸」を合言葉に国政一新を目標とした直接的な行動をとる。背後に巨大なバックアップがなければ実行出来ないであろう事は一目瞭然。勿論、実行部隊とバックの間でどのような会話がなされたかは想像するしか方法がないわけだが、実行部隊に対して原隊から補給が途絶え包囲された瞬間、一体どのような気持ちでいたのかなど想像するととても胸が苦しくなる。

この事件では多くの犠牲者を出し、且つ多くの若く熱い血をも流した。
私は双方の為に蝋燭に火を灯し線香にあげることにした。
ここら辺は結構頻繁に通るので、歴史街道の一つとして当時の出来事を想像する。

   by Switch-Blade
# by Switch-Blade | 2007-02-25 15:45 | 「外伝」ニュース | Trackback | Comments(0)