人気ブログランキング |

 今年もあとわずかとなりました。
先日28日に、この「外伝」の主人公、戦陣の断章の著者宅に
表敬訪問に行ってまいりました。
とても楽しく和やかな雰囲気の中、始めて見る色々な写真、
貴重なお話や、インターネットで検索されたwebサイトなどを
見ながらまるで自宅以上に寛いでしまいました(^^)

さて2004年最後の更新となる今回の外伝は教科書シリーズ第二弾です。
軍隊には色々な職種の方が在籍していたということは前回も書きましたが、
教育関係携わっていた方も多くいらしたようです。
中高生レベルの教育を指導する事によって復員後祖国復興に
役立つ社会人となってもらいたいと考えた、今村将軍の責任感の強さは
私自身見習わなくてはならないものだと強く感じました。
自らの保身など考えず、部下の将来を第一としたその考えには
本当に頭の下がる想いです。
今回はその表紙をご紹介致します。
「外伝」 第四十一話 「こんな教科書まで!」_b0020455_20333643.jpg


 大変多くの方にこの 83歳の「戦陣の断章」を
ご覧頂きまして誠に有難う御座いました。心から御礼を申し上げます。
来年も83歳の「戦陣の断章」をどうぞ宜しくお願い申し上げます。

新!戦陣の断章   
戦争を語り継ごうリンク集はこちらから
by Switch-Blade | 2004-12-30 21:24 | 第四十一話~第五十話

「外伝」四十話 「望郷」_b0020455_20324513.jpg


今回は、先日ご紹介した英語教程の中身をUP致しました。
一読するとお分かりになると思いますが、
まるで海外旅行用の一言英語だなぁと感じました。
勿論現在では「君は現役ですか?いいえ予備役で招集されました。」
なんて会話あまり聞かないと思いますが、当時の情況が良く伝わってきます。
よくぞ現在まで保存してくれたものだと脱帽する毎日である。
著者から送られてきた資料の中から一つ、

「終戦後のラバウルで、私は『かがみ』という雑誌の編集をしました」と
元文化出版局局長をなされていらした今井田勲氏は
このように語っていた。
「皆が意気消沈しているので何かの励みになるものをと
今村大将にお願いし、それを創刊号に載せました」
そして、
「かがみ」はザラ紙に綺麗な騰写版刷り60ページ、週刊誌大の雑誌である。
将兵の創作による時代小説、恋愛小説、短歌、俳句、世界情勢、英語講座、
復員後の職業案内、各団の消息などに、カット、イラストを多数加え
将兵の待望する娯楽、教養、情報を網羅している。
口絵には桜の木の下に立つ和服姿の美人画が使われているが、
これほど将兵の望郷の念を誘ったのか、
今日でも胸の熱くなるほどの内容である。」と、このように書かれていた。

そして最後に、著者の戦友古守氏著南雲詩から作者不明の
「英霊の声」をご紹介しよう。(南雲詩p369引用)

「英霊の声」
億兆の先霊ひとしく照覧し給う 静かに聞く在天英霊の声
大業を成就するは又何れの日ぞ 誓って英霊に謝し聖恩に応えん
道は遠く復興任また重し 千辛万苦絶え難きをしのび
精進日に新たに文化を敷き
徳を持って怨みに報い慈光を施さん


新!戦陣の断章   
戦争を語り継ごうリンク集はこちらから
by switch-blade | 2004-12-23 21:46 | 第三十一話~第四十話

現地自活そして

戦争末期、ラバウルの戦場は作物栽培で現地自活の為の
農耕作業をやっていた。これは第八方面軍司令官 
今村均大将の発案によるもので内地からの物資が途絶えた為、
生き延びる為の一策である。各部隊に割り当てられたジャングルを
開墾して陸穂、とうもろこし、サツマイモ(沖縄100号)、カナカほうれん草、
タピオカその他多くの作物を栽培した。
幸い熱帯地方の為3ヶ月くらいで概ね収穫が出来、
ほっておけばどんどん大きくなったという。著者が指揮していたエリアで作業中に、
極楽鳥がトウモロコシ畑に飛来してきた。
その場に居合わせた一同が「アッ!!」と目を見張った。
まるで絵に描いたような鳥だったという。
開墾時に空襲を受ける事も有り、コックピットのパイロットが「ニヤニヤ」しながら
機銃掃射を加えてきた事も!
敵の上陸作戦に備え兵站の備蓄や訓練を重ねてきたのだが

          8月15日-終戦

さあ、これからが大変である
以前紹介したように、豪軍が進駐し各種兵器の投棄作業や警備、
そして将兵に対してのメンタル面での配慮もあったという。
敗戦という事実を目の当たりにして、自決するものが続出したとの事ですから、
これには十分な注意がなされたといいます。
将兵の中には中国戦線からさらに南方へと八年に及ぶ
戦陣生活をすごした方もおります。
一般生活とは隔絶した軍隊だけで暮らしてきた将兵達が、
敗戦後の混乱が想像される日本に戻って果たして抵抗なく
周囲に溶け込めるのだろうか?
そして、是非祖国復興に役立つ社会人となって
もらいたいが、そのためにもまた職を探すにも長く軍隊にいた為
知識面、教養面の弱さが障害となりはしないだろうか?

今村均大将はこのように考え、三年半という長い歳月を
彼らの教育にあてようと決心したそうです。
軍の中には各分野の学識を持つ方が多く存在したそうで、
その中には教職者もいて、教師陣には問題がなかったそうです。
各科それぞれ手分けして教科書作成に取り掛かりました。
その教科書は農業や医学、数学や科学に至り、
しかも分かりやすくまた詳しく書かれておりました。

その一つが、前回掲載した「英語教程」です。
この教程をめくっていると、なるほど
これならブロークン英語は喋れる様になるなぁと感じました。
この教科書を作成した方は恐らく、英語の教師だったのでしょう。
現在でも、言葉を置き換えれば中学校で教わる英会話そのもので、
戦地ですから手持ちの資料など皆無であるはずなのに
よくぞここまでの教科書を作成したものだと感心致しました。
そして理科の植物を担当していたのが
「戦陣の断章」の著者、この「外伝」の主人公である。
著者は教科書の中に多くの挿絵をいれた美しい教科書の
試案を纏めて今村大将を喜ばせたとの事でした。


復員船で日本に向けて出発する著者の背嚢の中に
それら資料が大切に収められていました。
  続く
         

新!戦陣の断章   
戦争を語り継ごうリンク集はこちらから
by Switch-Blade | 2004-12-13 21:09 | 第四十一話~第五十話

12月8日は何の日?

 昭和16年12月8日はなんの日? 知らない人が多くなったでしょうね。
私は未だ学生の身分でしたが、この日が徴兵検査というまさに
記念すべき日でした。めでたく合格し帰りには「ローズハウス」という
音楽喫茶に立ち寄りベートーベンの

「運命」を聴いていました。

街中軍歌と万歳の嵐です。
12月末に3か月の繰り上げ卒業(われわれが第一回目です)。
鶴見にある会社に1月半ばまで勤め入営のため退社。
2月1日歩兵第141連隊(留守部隊ー本隊はフィリッピンのバターン半島攻略中)に入営。
以後約5年間の軍隊生活に入ったのでした。
この頃の青年男子は20歳で徴兵検査(義務です)、
甲種合格すれば「男子の誉れ}でした。
入営日の数日前には町旗とともに親子で記念撮影、
出征当日は町内一同に挨拶後「万歳」三唱で見送られました。
まさに男子の本懐であったのです。
今では想像すら出来ない当時の出征風景でした。

<戦陣の断章の著者からお送り頂いたメールを
ご紹介致しました。
ハワイ作戦はご存知の方も多いかと思いますが、
同時にマレー、シンガポール作戦も展開されました。
ハワイ攻撃をZ作戦、マレー攻撃をE作戦といい、
これを同時進行しどちらか一方が先行すれば奇襲は
失敗に終わる恐れのある作戦でした。(実際は誤差有り)
マレー作戦の敵前上陸地点のコタバル周辺と
ハワイ附近ではおよそ6時間の時差があり
マレーの夜はハワイの払暁にあたります。>

新!戦陣の断章   
戦争を語り継ごうリンク集はこちらから
by Switch-Blade | 2004-12-09 20:04 | 第三十一話~第四十話

 終戦後、復員船を待つ間の約9ヵ月の間、碁や将棋をやったりして
退屈を凌いだが、

        なんといっても、映画と芝居であった。

貫名(ヌキナ)部隊=野戦重砲連隊が映写機を持っており野外にスクリーンを張って
             映画を上映してくれた。 
南の風、山祭り梵天唄、ジャングルの恋、結婚の宿題、唄祭浩吉節、木石、生きている孫六、ハンガリアン舞曲、大江戸百揆など23の映画が上映されて拍手を浴びた。

また、海軍の若手で「鵬劇団」を編成し、本物そっくりの舞台を造り、
バラエティ「唄う雲助」、「歌模様」、「五条の夢」、時代劇「恋慕吹雪」、トーマ民謡「豊年踊」などなどを見せてくれた。
衣装やかつら等ほんものそっくりで、女に餓えていたわれわれは

    笑ったり涙を流したりして夜の更けるのも忘れたものです。

わが連隊でも「トーマ劇団」を編成し、南十字星楽団による
「唄と踊りと軽音楽」と称し、オペレッタ歌う八百屋お七、一人芝居月形半平太、
瞼の母その他20ぐらいの出し物でわれわれを慰めてくれた。

いずれも玄人はだしで、よくも舞台や衣装をほんものと同じように
造ったものだと感心したものです。

 軍隊には色々の職業の人がいますが、こんなところに現われたのです。

映画,演劇などの題は全部拙著「戦陣の断章」に載せてあります。
戦友達が、よく覚えていたものだと感心していましたが、
わたしが戦地にいる時に全部メモしておいたのです。

       今は皆懐かしい思い出です。

殺伐とした戦場、しかも豪州軍の監視下にあった時ですから
               これらが復員を待つ間の慰めになったのです。


前著は、多くの戦友に配布しましたが、忘れていたことが思い出せたと喜んでくれました。


<終戦後の将兵の気持ちは恐らく我々現代人には、想像を絶するものだと自分は考えます。
この事を思うと自分は、悔しさと刹那さの念に襲われます。
死んでいった戦友の無念を晴らすまでは戦うぞ!このように思う方々、
自決する方々、その無念が多くの書物や資料を読んでいると深く感じられます。
自分の家系からも多くの戦死者を出しました。
特攻で死に斬れずに病死した叔父、満州で砲兵だった叔父、
サイパンで玉砕した多くの親戚、フィリピンで撃沈された祖父の思いを風化させることなく
平和な世界を築く礎を我々現代人が構築しなければなりません。

さて、下記の画像は一体なんだと思いますか?これは、著者がラバウルから持ち帰った物で、今現在日本で数冊しかないものです。もしかしたら一冊も無いかもしれません。
次回詳しくご紹介したいと思います。
「外伝」 第三十九話 「トーマ劇団」_b0020455_20314452.jpg



         
by Switch-Blade | 2004-12-03 16:32 | 第三十一話~第四十話

昭和17年12月27日に駆逐艦や巡洋艦に守られたわれわれ輸送船団6隻が、
宇品港を発ち、豊後水道を通り、一路南へと進んだ。暫くの間は周囲に小島が続く。
服装からして南方の戦場に行くことは間違いない。 

何日かして回りに島が全く見えなくなる。

敵潜水艦や飛行機の目を避ける為、じぐざく航路をとる。 左に方向転換をする。
するとどうでしょう。今まで右にいた艦が、ずっと後ろになる。今度は右に転換をすると、
こんどは右の艦がずっと前になる。
つまり、回りに比較するものが無いことによる錯覚である。
分かるかな?分からなければ楊枝などでやってみるとこの理屈がわかると思う。

     1月14日にラバウル港に着いた。

           19日かかった。

          何回か魚雷の航跡にあったが、無事だった。
 

そして、戦後昭和21年5月2日、復員である
今度は、アメリカさんから借りたリバティーV0006号。まさか早い。 名古屋港に着いたのが5月16日で、
15日間かかった。行く時とそれ程の違いが無いのに驚いた。
 
 行きも帰りも「硫黄島」が見えるところを通った。

帰りに見た「硫黄島」は禿げた姿であった。戦後の記録で、

        激しい攻防戦だったことを知り、

          納得した

     お互い血肉を分けた血みどろの戦だったのだ。
 
輸送船の長く暑い生活も忘れがたい。ましてや行く時は、船首で対潜、対空見張りの任務もあり

生きた心地が無かったのは言うまでも無い。船に弱かった者には、一層辛かったことと思う。
 
   
by switch-blade | 2004-12-02 21:56 | 第三十一話~第四十話