2005年 03月 09日
東京大空襲
60年前の昭和20年3月9日22:30警戒警報発令し、二機のB29が東京上空に飛来して房総沖に退去したと見せかけた。都民が安心した10日00:08に第一弾が投下された。この時、東部軍管区司令部は気づかず、空襲警報は鳴らなかった。そして00:15空襲警報発令、それから約二時間半にわたって波状絨毯爆撃が行われた。深夜の寝込みを襲われたのである。344機のB29の大群が、房総半島沖合から単機または数機に分散して低高度で東京の下町に浸入したとされている。江東区・墨田区・台東区の約40k㎡の周囲にナパーム製高性能焼夷弾を投下して火の壁を作り、住民を猛火の中に閉じ込めて退路を断った!
約100万発2000トンといわれる油脂焼夷弾(ベトナム戦争時多く使用されたナパーム弾の前身)、黄燐焼夷弾(およそ3000度の高温で金属すら溶かし水中でも燃えるので消火は困難といわれている。)やエレクトロン(高温・発火式)焼夷弾が投下され、逃げ惑う市民には超低空のB-29から機銃掃射が浴びせられた。1平方メートルあたり3発の焼夷弾をおとしすべての建造物、すべての人たちを焼き尽くしたのである。(消火活動に当たった消防隊や一般市民の方々のこの上ないご苦労と苦悩がいとも簡単に想像できる。消火など出来たものではない!)帝都の一般市民は次第に狭まってくる火の壁の中を逃げまどいながら、性別も判らないような一塊の炭と化すまで焼き尽くされ、一夜にして焼死者約10万人、負傷者約11万人戦災家屋26万戸以上が燃え上がった。
当初米軍による日本本土空襲では、飛行場や軍需工場などを標的とした「精密爆撃」であったとされている、しかしカーチス・ルメイ少将がこの作戦の司令官に任命されてから「無差別爆撃」に変わっていった。考えただけでも恐ろしいことである!民間人の家ですら隠匿された軍需工場とされ、すべて戦闘員とゆう理屈で行われた作戦である。=女、子供、老人のすべてが戦闘員とは!!
すべての戦災者の方々のご冥福をお祈りいたします。 by Switch-Blade
by Switch-Blade
| 2005-03-09 00:19
| 「外伝」ニュース