終戦後、豪州軍が進駐してきたことは前述のとおりですが、武装解除が大変でした。
重機関銃以下の小兵器は発動艇で海に捨てるのですが、
     毎日往復して約3ヵ月かかりました。
軍刀、眼鏡、拳銃は別々の洞窟に集積され、番兵が監視していました。
私は軍刀の洞窟担当になりましたが、時々怪しい男がやって来て
番兵に賄賂を握らせて中に入り、好きな刀を探して持って行きました。

    笑ってしまいました。

いちいち柄を外して銘を見たらしいが、分からず、
私に何年前の頃のものか聞いてきましたが、
適当に英語で説明すると喜んで持って帰りました。

私が使えた真野閣下の軍刀は、正宗の両刃でした。
珍しいもので、今シドニーの戦争博物館(?)に展示されております。
年に一度福岡の研ぎ屋さんに研いでもらいに送られてきますが、
閣下の遺族が帰えして欲しいと嘆願しても駄目だったそうです。 
他にも名刀が沢山あって、展示してあるそうです。
一度は見たいと思っていましたが、もう叶いません。

 文字もろくに書けないやつらに、ペコペコするのは本当にいやな思いでした。

  敗戦の辛さですね。             

 両刃で反りのある軍刀は、肩につけられません。
閣下が出かける時にはその軍刀を私が持ってあげました。
その頃はまだ銘までは知らずにいましたので、戦後銘を知って驚いた次第です。
もうシドニーにも行けず残念です。

<真野閣下の軍刀は1450年頃に作られたものらしい。
 両刃とは大変に珍しいものだという。by switch-blade>
 
新!戦陣の断章           
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by switch-blade | 2004-10-13 15:35 | 第二十一話~第三十話 | Trackback | Comments(0)

    今日久しぶりに私の友人が訪れて来ました。
「那須戦争博物館」を見てきたといってカタログと撮ってきた写真4枚をくれました。
話には聞いていましたが、栗林白岳という館長(昭和1桁生まれ)の
熱意(?)には驚かされました。

 なんと実物の戦闘機、戦車、いかり、飛行機のエンジン、軍艦の船首その他の展示、
館長をはじめ係りの若者が旧軍の服装をして出迎えたりと館内に入ると
50数年前に戻ったような錯覚を覚えるそうです。
あるはあるは!館内にはあらゆる戦前の軍隊にかかわる物が溢れているそうです。
 遊就館とは違った館だそうです。一見の価値ありそうですね。
 


             
 
<このような場所は、実は日本の各地に存在し、関東地方だけでもかなりの数がある。
  こうした博物館や鎮魂の場を一箇所でも多く見学したいと思っている。>
 
 こちらに詳しく載っているので参考にしていただきたい。

http://www.asahi-net.or.jp/~ku3n-kym/list.html/

新!戦陣の断章
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by Switch-Blade | 2004-10-03 21:57 | 第二十一話~第三十話 | Trackback | Comments(0)

 昭和21年の第一回総選挙のときの話。
当時は未だ進駐軍がうろうろしている時代です。
私が復員後初めて県の出先機関である「河内地方事務所」に就職して、
間もなく総選挙がありました。
私の事務所は宇都宮市を中心として南北に長い「郡」で、
当時私が最年少(?)であったため一番北の豊岡村の監視役を仰せ付けられました。
日光市の手前で約9里あります。当時は日光街道も砂利道でした。
車もオートバイの免許もありません。ですから当然自転車です。
 
 初めて女性にも投票権が与えられた年でもあり選挙場は大賑わいでした。
私の任務は先ず各選挙場の様子を予め準備された設問用紙にしたっがて
記入することでした。(例えば会場に花が活けてあるとか)
時々進駐軍の兵隊さんがジープで乗り付けて「OK」などといって帰っていきます。
 「畜生めー」と思いましたね。 
投票時間が終わり、集計して投票状況を電話で本庁に報告し、
投票用紙は纏めて包装して自転車につけて夜中に本庁まで帰ります。
真夜中の日光街道を重要書類を持って帰るのですよ。真っ暗です。
時々通る車のライトの光を頼りにサツとペダルを踏み大忙しに走ります。

      砂利道がジャリジャリと静寂を破ります。

 その繰り返しをしながら又9里の道を帰るのです。
一歩間違えば重大事件に成りかねません。

こうして各候補者の投票用紙が届き、先に報告しておいた数字と符合させて
確定数字となったのです。
 
 今のように総てが完璧になっている時代と違い「選挙事務」はおお事だったのです。
今考えると笑い話になりますが、こういった多くの公務員が手分けで
奉仕した結果の当落だったのです。

 今、よく「役人」が「悪」の代表みたいにいわれますが、
下働きの苦労は一般に分かって貰えないのが淋しいですね。
 私がまだ現役の時も、よく県会議員に威張られましたが、腹の中では笑っていましたよ。
県議会の質問に何を質問したらよいかなどと聞きにくる「やから」もいるくらいです。
おツと・・元公務員もこういう秘密は漏らしてはいけないんだっけ・・。
名前は伏しておきましょう。   


 <戦後第一回総選挙の思い出を送ってくださった。
  今とは随分違って投票が終わり輸送は自転車なのだ!
  砂利道を約35キロほどであろうか、しかも真っ暗闇の中を!
  今ではありえない話である!!! by switch-blade>
  
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by switch-blade | 2004-10-03 02:42 | 第二十一話~第三十話 | Trackback | Comments(0)

「このメールは総合火力演習後、著書から頂いたメールである。」

 自衛隊の諸君は、当然のことですが実戦の経験はありません。
演習はそれなりの効果は果たせたと思います。
貴君のいうとおりいざと言う時にも死を賭して戦ってくれることを信じます。
私の過去を振り返ってみますと、久留米第一陸軍予備士官学校で
将校教育を受けている時、何回も演習をやりました。
 飛行機、戦車との合同演習もやりましたが、
所詮は弾丸の飛んで来ない演習ですから本当の実感は湧きませんね。
 
 実際の戦場に赴任して、改めて敵の飛行機の爆音が聞こえるジャングルで
将校教育を受けた時初めて実戦に近い演習をやった気がしました。

 内地での演習はおおむね大陸戦を想定したものですから
我々新米将校にジャングルでの指揮法や心構えが必要だったのです。
もっとも内地でジャングル戦の訓練をやるところも無いですがね。いい勉強になりました。
その時の教官は、私と同年配の陸士出の少尉でした。のちには大尉になりましたが、
フィリッピンでバターン攻略戦を経験していましたからジャングル戦は経験していました。
 私が第一大隊長の副官をしていた時彼は中隊長で、
           
           ともにマーカス岬の戦場で戦いました。

 その名は酒井大尉。今でも福岡で健在のようです。
今実戦の経験云々といっても平和な日本では通用しませんが、
若い政治屋がイラクに自衛隊を派遣するしないで
議論をやっても空理空論の域を脱しないのは止むをえませんね。
 「演習」みたいなものですな。

  

 

<イラクにしても何処にしても派遣が決まり、
 部隊を送る時の映像は見るに耐えないものがある。
 反対~反対~!ってところが大きく取り上げられ薀蓄を語る人物が出てくる。
 送る側の家族の気持ちなどそっちのけなのである。
 滑稽に見える事が余りにも繰り返されている感あり。
 口に出して言わないけれど、このように思う人は多くいるようだ。
 核武装にしても我が国は世界唯一の被爆国である。
 近隣諸国は躍起になって核開発を進める中、我が国だけが持っていない。 
 持っていなければ平和になるのだろうか?? by Switch-blade>
 
   
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by switch-blade | 2004-10-02 13:00 | 第二十一話~第三十話 | Trackback | Comments(0)

 今村閣下の偉大さを伝える韮崎市の謹慎伏屋は観る価値があるでしょう。
なんといっても部下と苦楽を共にすべく、牢獄から進んでマヌス島に志願して赴き、
刑をまっとうした閣下の人格が偲ばれる事です。
刑を終わってからもこの謹慎室に籠って亡き戦友に想いを致し、
文筆中崩れるように一生を終えたそうです

このような立派な将軍に勝利の女神が来てくれなかったことは残念ですね。

 陸大同期に陸士先輩の東條大将がいますが、どうどうの首席で卒業し、
ご前講演をやられたという実績は、大将の面目躍如たるものがあります。
陸士の歴史の中で幼年学校卆が全くいないというのも
今村さんの期だけという事に、なにか因縁めいたものを感じます。
13~14歳の幼年学校から軍事教育を受けたものより、
むしろ高い見地から判断出来る素養が身についていたのではと思います。
このような立派な軍司令官のもとで戦闘できたことも光栄に思っています。


 このように書かれたメールを頂いた。


 
 <死線を潜り抜け生還した人間がそれでも慕う人物とは、
 一体どのような人物だったのだろうか?

 現代では余り考えられない事なのではないだろうか?
 現代人はいとも簡単に人を恨み、妬み、殺す。
 部下を思うということは生半可では出来ない事と思う。
 そして上を慕う事も大切な事だが、こちらも生半可では出来ない事だ。
 筋の通った生き方をしない限り、中途半端で終わってしまうのではないか?
 お互いにね。と、考えてしまう。

  それにしても今村将軍に関する書物は読めば読むほどのめりこんでしまう>
                            by Switch-Blade

 

 

  
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by Switch-Blade | 2004-09-30 00:00 | 第二十一話~第三十話 | Trackback | Comments(0)

 幹部候補生の時の軍曹は、「軍曹の階級を与う」というもので、
兵隊から長い経験を経て軍曹に進級した者と区別されます。
二等兵から軍曹になるには五年以上は掛かるでしょう。
ただし、士官候補者の試験に合格したものは早く進級します。現役ですから。
我々幹部候補生の場合は、
予備士官学校在校中 見習士官(曹長の階級)になるまでの過程での階級です
 一気に見習士官と言うわけには行きませんからね。
階級章の脇に丸い座金に星があるでしょう。これが幹部候補生の「シルシ」で

       「誇りでした」
 士官候補生は(陸士出身者)は星だけです。
在校中は両側に座金、卒業して見習士官になって原隊に帰るとき、
右側が63の数字に変わります。(そう、私の場合西部63部隊でしたからね。)
           「誇り高い気分」でしたね。
 4箇所の連隊から派遣された幹部候補生は、皆 見習士官になり、
軍刀をさげて連絡線に乗り関門海峡を渡って
それぞれの原隊に「凱旋」?して行ったのです。

この誇り高い気分は現代人には経験出来ませんし理解も出来ないのでは?
要するに当時の若者で、誰もがなれるものではない「格好のいい憧れの姿」であったからです。

 ですから、日曜日に外出した時など「もてました」ね!!ハハハハ(^^)
b0020455_5371995.jpg



    
かっこいいとはこういう事だな!と、思う今日この頃である。
それはただ単に軍隊に入隊するという事ではない事は勿論お分かりであろう。
それはその時代で異なるものと思うが、しかしながら共通する事が一つある。
それは、「どう生きるべきか?」 自分はこのように感じた。
それぞれの時代背景があるのだからね。
「なんとか楽して・・・」この言葉はまさに「愚の骨頂である」
     自分はこう感じた。
                            by Switch-Blade
 
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by switch-blade | 2004-09-26 05:49 | 第二十一話~第三十話 | Trackback | Comments(0)

      「転進」
 この言葉には常に嫌な思いにさせられます。

   <先程届いたメールの書き出しである>
 
 転進とは、一般に「退却」という意味に取られているからです。
「南海支隊」は、ポートモレスビーを目前にして弾薬、糧秝尽き、涙を飲んで撤退しました。
この行動を「転進」だと、悪く言われています。
我々は、マーカス岬の戦闘で「貴隊は最後まで当地を死守すべし」と
       玉砕命令を受けました。
ところが「カ号作戦」(ソロモン群島要地奪回作戦)が発動となり
「ラバウルに集結せよ」の命令が出ました。
その為玉砕を免れ、ラバウルまでの血の滲む転進が開始されたのです。
勿論、前線を離脱したからといって「退却」でもありません。
しかし「転進」という言葉を使っています。

 現在、嫌戦の輩は、旧日本軍の作戦変更の「戦線移動」を
全て退却を意味する十把ひとからげの表現を用いています。
つまり、転進=撤退=退却 となってしまいました。
情けない思いです・・・
当時の大和魂で固まった日本軍が「退却」などは考えられませんでした。

 

 <簡単に公を重んじての結果敗戦に至ったから、個人を確立尊重しようといった
  安易な思考推進で生じる現在の諸事件にも関連しているなと感じたメールであった。>
 
  「外伝」 第二十四話 転進の事 完

 
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by switch-blade | 2004-09-24 15:03 | 第二十一話~第三十話 | Trackback | Comments(0)

 私たちの戦場(第八方面軍管轄)で一番偉かった人が、
在ラバウルの第八方面軍司令官 陸軍大将 今村 均です。

 私の属する部隊はその末端部隊であり、
私が専属副官をやっていたのは第65旅団(夏兵団)の長 真野五郎中将の時です。
方面軍の下には下部組織として 師団 独立旅団 など沢山ありました。
東部ニューギニア ニューブリテン島 ブーゲンビル島 ガダルカナル島、
ほか沢山の島にわたってそれぞれの部隊が統治していました。
その総元締めが第八方面軍です。
その第八方面軍司令部はニューブリテン島のラバウル にあり
私の部隊も ニューブリテン島内にあり、方面軍の直轄になっていました。

 軍隊も一般会社や役所と同様人事異動があり、
戦死者が出れば当然その穴埋めが必要になります。
私が一時期 中将閣下の専属副官をやっていたのもほんの一時期のことでした。
「戦陣の断章」にも書きましたが、私たち夏兵団に今村大将が視察に来られた時、
兵団内将校による会食があり、その時初めて今村閣下にお会いしました。
下級将校にとってみれば大将というと雲の上の人ですからね。
しかし光栄でした。その時今村大将の威厳というものが感じられました。 

           <会食のメニュー>は? 

 会食といっても戦場で、しかも内地からの補給も侭ならなくなっている状況下です。
せいぜいタロ芋(サトイモに似ている)の煮たもの、カナカほうれん草のおひたし、
高野豆腐の煮付け、パパイヤの漬物ぐらいがオカズでした。
ご飯は偉い人にだけ出し、
われわれ下っ端はサツマイモ(沖縄100号)のふかしたものです。
今村閣下は立派な方ですし、状況はよくご存知でしたから
「皆も食料事情の悪い状況下でよく奮闘されており、ご苦労なことです」。
     と労ってくれました。
酒も椰子酒でした。閣下の前にお酌に行った時のことは私の本にも書きましたが、
手が震えましたね。南方戦線は中国戦線と違い、何もかも爆撃で吹っ飛ばされて
しかも内地からの補給も途絶えましたから、食料は貧困でした。幸い熱帯地方の故、
自然の植物が豊富にありました(実際はみな現地人の所有物なのですがね・・)。
兵隊さんの中には職業柄料理の上手な人もいて結構いろいろ工夫してご馳走を
作っていましたよ。ですから上記の会食の時も一級の腕を持った兵隊さんが、
一生懸命腕を振るったことでしょうね。
 

 
 <著者が今村閣下にお酌をしに行った時に今村閣下が著者に言った言葉がある。
  「戦陣の断章」に詳しく書かれているが、今村閣下の人柄が偲ばれる一言であった。
  緊張していた若い将校に対しての閣下の親心だったのではないだろうか?
  その言葉は
  「せんずりばかりしていては駄目だぞ(^^)」 である。
  
  その場の光景が想像出来てしまう、
  そんな事言われたら益々緊張してしまうのではないだろうか(^^)
  これを知った自分は益々今村将軍を好きになってしまった。
  
  戦後の部下を思う行動は、恐らく誰も真似の出来る事ではない。
  この事は、「外伝」の中でも紹介してきた。
  責任を取るということは、ただ辞めればいいのではないのである。
  そのことを皆がもう一度考える時期が、この国に来たのではないでしょうか?>
  
                                    by Switch-Blade  
  
  今村大将謹慎室 
  http://www.geocities.jp/kinsinsitu/
  
  
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by switch-blade | 2004-09-23 03:12 | 第二十一話~第三十話 | Trackback | Comments(0)

 
第一線の戦場から帰り、

いよいよラバウル地区要塞の建設と敵上陸に備えての訓練です。

訓練の要諦は対戦車攻撃です。一回り大きい戦車を想定しました。
ゴム林に沿った三叉路でどちらから彼等が突入してくるかも訓練にはいりました。
対戦車の武器といっても特にありません。
要は戦車のキャタピラを斬れば行動不能になります。
 キャタピラを破壊する手段として「破甲爆雷」がありました。
直径25センチぐらいでしたかと思います。
今中東で除去に苦労していますね。あれに似たものです。
如何せん、貴重なもですから中東地区のように
何処も彼処にもという状況にはありませんので、そこが日本人の頭のよさ?
竹棒の先にくくりつけて隠れており、戦車がやってくると
背を低くして「やツ」と爆雷をキャタピラの下に差込み破壊させるという戦法です。

        勿論決死の覚悟です。
戦車と一緒に爆死するかもしれませんね。
各部隊の分隊単位に一人担当がいました。待ち伏せのための陣地はとくにありません。
臨機応変に対応出来るように訓練しました。
歩兵以外でも同様の訓練をしたと思います。方面軍からのお達しですからね。

米軍が上陸してくれば当然戦車が主力になると想定していましたから、
対戦車訓練が主な対上陸戦法になっていました。
当然対空戦闘も訓練の対象です。
機関銃の脚を一人が持ち、一人が空に向けて射撃するという原始的(?)なやりかたです。
歩兵にはとても飛行機を攻撃するなどという役目はありませんからね。
しかし超低空でやってくる飛行機には、それなりの攻撃の訓練は必要でした。  
久留米にいるときの訓練は、戦車に沿って一緒に攻撃する定石戦法と戦車が
向かってきた時に飛び乗って天蓋をこじ開けて 手りゅう弾を投げ込むという戦法
でしたが、
後者の場合は最後の手段で、戦車のどの方向から、
また、どこから飛び乗るかが大変でした。
しかしまだその頃はそんな切羽つまった気持ちはありませんから、
恐ろしい気持ちが先にたっていましたね。
しかしマーカス岬の戦場では現実にこれが功を奏したのですから今になって振り返ると
平時の時の訓練は、あらゆることを想定してやるものだなとつくずく思いましたね。

第8方面軍傘下の南方の戦場ではどこでも同じような状況だったでしょうね。  
b0020455_2037165.jpg

※ この写真は国内での演習風景である
 専門家に見て頂いたところ、中々お目に掛かれない大変貴重な写真とのことだ。
 やはり空襲などで焼失したり、長い年月の経過で劣化は避けられないとの事である。
  

                                   by Switch-Blade
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by switch-blade | 2004-09-21 14:59 | 第二十一話~第三十話 | Trackback | Comments(0)

「外伝」 第二十一話

我々士官学校の同期生7名が、連隊に着任した話は「戦陣の断章」に書きましたが、
その内1名はツルブの戦闘で戦死、1名はマーカス岬の戦闘で斥候に行ったきり行方不明、
1名は病没でした。

最初の男は、将校室で上官だった中尉の拳銃を借りて、
弾丸の入っていないことを確認したうえで引き金を引いたら、
なんと暴発し中尉にあたって 即死させてしまったのです。
それからというものは、当然ながらそのことで頭はいっぱい。
遂にツルブの戦闘で華々しい戦死をとげました。
次の男は、マーカス岬の戦闘のとき兵2名を連れて斥候にでましたが、
おそらく途中で敵と遭遇してやられたのでしょう。
とうとう帰ってきませんでした。
3番目の男は、まだ駐留している時になにか悪い物を食べてのでしょう。
赤痢症状の病気にかかり、我々同期生で野戦病院に見舞いに行きましたが、
もう鼻や口から蛆が出入りしており「宮本頑張れよ」と励ましたが虫の。
その後亡くなりました。
戦死と行方不明と病死。人さまざまの運命の分かれ道でした。
屯営で一緒に訓練をし、同じ部隊で苦労した者同士ですが、
私のように生きて帰れた者もおり、誠に複雑な思いです。 



士官学校同期生の事について書かれたメールである。
この文の最後に「私のように生きて帰れた者もおり、誠に複雑な思いです。」
このように書かれている。まさに胸が締め付けられる文章である。
この一行、たったこの一行を読んだ自分も複雑な気持ちになってしまったものである。
この一行には本当に多くの出来事、思い出、一言では語れない気持ちが、
詰まっているように感じられた。

苦戦を強いられた各戦線で、幾度となく「もはやこれまで」と腹を決めたであろうか?
「進むも亡国、退くも亡国」このような状況の中で一体何を心の支えとしたのだろうか?
自分の親兄弟が空襲亡くなられたり戦死したと連絡を受ける事も数多くあったであろう。
一体どんな気持ちになるか、是非一度考えてみてはどうだろうか。

「靖国で会おう」「先に九段で待っているよ」と約束して皆戦ったのだ。
外国の戦没者を参拝するのも勿論結構だが、この国の戦没者の参拝が先である。
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by switch-blade | 2004-09-21 14:28 | 第二十一話~第三十話 | Trackback | Comments(0)