砲撃

 砲撃、もしくは銃撃され海の藻くずとなった祖父。
その瞬間、脳裏をよぎったもの、どんな事を何を考えていたのだろうか?
これは俺にとって永遠のテーマだ。
12、13期の若い将兵を後方に逃がす為、30過ぎの祖父はその任務に就いた。
一般に、所謂「○四物」「震洋」や「マルレ」「四式肉薄攻撃艇」「連絡艇」のいずれかでの出動だ。
若い搭乗員を後方へ逃がす為に、搭乗員ではない将兵を防波堤としていたわけだ。
震洋関連のサイトにも掲載されていない名前が沢山ある。
それはどの艇で出たか解らない程ぐちゃぐちゃな出撃内容であったのだろうと推測出来る。

それはいい。

その本土決戦に必要とされた搭乗員の妹さんは後の教員となり偶然にも私の教鞭をとる事となった。
しかし彼女はその事を知らず教室で皆の前で私にこう言い放った。
「○○君のお祖父さんは戦争をしていました。これは人殺しです。」と。
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by switch-blade | 2011-07-27 19:34 | Switch-Bladeの個人的な話 | Trackback | Comments(2)

 しばらく日本を留守にしています。
衛星放送にて色々なニュースを耳にしますなぁ。
高知県沖での潜水艦とか、グルジアのロシア軍の動静とか、
航空機のトラブルだとか。ともかく色々だねぇ。
近海まで侵入されるとは、事情通諸兄にはお笑い事なのではと思う今日この頃であります。
あえて侵入を許しているわけ。

探知できない訳が無いよぉ。

英語も通じにくい国にいると、ある意味日本での環境の良さが解る。
個人的なお話だがね。
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by switch-blade | 2008-09-15 03:19 | Switch-Bladeの個人的な話 | Trackback | Comments(4)

 実はこの原稿はすこぶる長かった。
もっと多くの周辺事情があるのだけど、ブログにUP出来る量ではなかっため、何とか短く纏めたつもりだ。生々しい事があまりに多すぎて随分長くなってしまい、何とか最後のパートⅢで完結とさせて頂く。
「戦陣の断章」著者からは激励のメールを頂き大いに感謝しております(_ _)

「実戦は映画なんかとは違う」「実際に経験してみなければ実戦の事などわからない」
これは実に的を得た言葉だと思う。映画を観て戦争の全てを知ったつもりでいる人々があまりにも多い。
あれから国家間の戦争状態に突入した事が無い今の私達にはどうやって理解し受け入れていくかがポイントとなるのではないか?
戦史叢書だけでは伝わらない前線の将兵の心情、そして将兵が知る由もなかった高級上層部の作戦指導。各部隊で残されている書籍、そして実際に話を聞く事がもっとも大切であり必要な事と私は考えている。

ある方の父上は大陸での戦闘を経験し無事に復員する事が出来たという。
戦後、戦争中の話は一切皆無であったとの事だ。
そして、数十年後入院先の病院で痛みと昏睡状態に陥っているとき、うわごとだけでその経験を叫んでいたという。なんとも切ない話ではないか!戦闘時の模様を叫んでいたのである。

ベトナム戦争では兵士の神経衰弱、麻薬汚染が問題になっていた事は誰でも知っていることだが、戦争は戦争で何処の国でも相当の打撃を受け、勝っても負けても相当の後遺症を残す。
世界が戦争の愚かさに気付く時が訪れる時、それは一体いつになる事やら皆目見当も付かない。いまだに大小多くの紛争が続けられているのが現状だ。
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by switch-blade | 2008-02-10 11:55 | Switch-Bladeの個人的な話 | Trackback | Comments(0)

 出撃数日前、マニラの日本人経営の居酒屋、店名は皆さんもご存知だろうと思う。
階級の違う同郷の戦友が集まり最後の晩餐が始まった。
誰も絶望感など漂わせる事無く、それぞれの立場、戦況の事を・・・そして内地の家族の事が話題となった。マニラ湾は既に敵に包囲され、敵潜水艦がウジャウジャしていた訳で、船舶艦船の情報は既に筒抜け状態となっている事など誰でも知ってた。現地人の二重スパイはそこら中にちりばめられたマニラ市はウィーンさながらのスパイ天国であった事は容易に想像できる。
この晩餐には「とと」の親友も参加していた。彼は左腕の肉が飛び散るほどの重症を受け、筋肉がすっかり削げ落ちていた事が判明した。
全員美保海軍航空隊に所属してはいるものの、飛行機乗りではなかった。
陸軍にも船舶部隊はあり、航空隊所属でも艦隊勤務がある。
大中小輸送艦、駆逐艦、駆潜艇など急造された木製又はコンクリート、帆船にも及ぶ。

いざ出撃。

数分も経たぬうちに敵潜を察知。厳戒態勢に入る。
「とと」とは自分の祖父の事なのだが、明治44年生まれの予備役であった為、このことが当時どれだけ人員が不足していたか容易に想像できるであろう。
ましてや昭和20年2月26日の戦死となるとその戦場と艦船を絞り込む事が出来る。

最後の手紙は検閲済みの赤い判子が押されていて、内容は至極簡潔に書かれていた。
しかしこの簡潔な文章の中には相当な想いが隠されていると感じた。

中々口が重い親族に私は無理を承知で話を聞きだした。
その艦艇は撃沈を免れ、若干数の生存者がいたのである。
急遽編成された美保海軍航空隊は、三重空やそれよりも古い基地から猛者が教官として派遣されている。要するにキツイ基地であったことと思う。

「こちらは至極元気です。夜食など勿体無い位です」と書かれている色褪せた葉書を見ると自然と涙がこぼれてくる・・・昭和19年は糧秣などほんのわずかだ。

先ずは雷跡を確認。放射状に向かってくる。難なくかわす。
そして次が襲ってくる。それほど速力の無い艦船では交わすのが難しい。
暫くすると雷撃機が襲ってくる。艦橋、銃座から金切り声が上がる。
甲板では皆が必死だ。十分な弾薬、高角砲も少なく射撃は制限されるわけだが、
「撃ち負けたらおしまいだ!」「撃ち負けたら殺られてしまう」

そして、数発の魚雷が命中した。
雷撃後、艦爆の攻撃もあったと思う。勿論戦闘機の銃撃も。

数時間持ちこたえたその時、弾薬が尽きた。
「とと」私の祖父は、炸裂の衝撃で海に投げ出されてしまったという。無念だ・・・
「何も出来なかったんです」と語った戦友は罪の意識に苛まれ終始口数が好くなかった。
私の親戚や家族は彼に対し「本当によく帰って来たね。本当に良かったね!」
淋しくても辛くてもこうした言葉をかけることの出来る家系に生まれたことは自分にとって誇りですらある。

沢山の人が戦死したあの戦争を、自分の脳に刻み込み、この国にはそうした歴史があったと云うことを理解しなければならないと改めて実感したこの数日間であった。
あえて船舶名は記さない。
当時の壮絶な時代を思うと、現在の飽食の時代は呆れることが多すぎて失笑してしまう。

祖父の写真を眺め、短い手紙を何度も読み返している自分はここから学ばなければならない。


これは戦陣の断章ではなく、自分の祖父のお話である。
まだ続きがあるかもしれない。期待しないで待ってほしい。by Switch-Blade
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by switch-blade | 2008-02-03 23:03 | Switch-Bladeの個人的な話 | Trackback | Comments(0)

 「戦陣の断章」&「とと~」等々随分と更新していなかった。
あれから二ヶ月ようやく身辺が落ち着いたので、さて再開と行こうか!

自分の祖父のお話。「とと!勝ってこいや!」の原稿は上がっているんだけど、なんとなくUPしにくいのです。色々と紐解いていくと更に色々な事が判明し「激戦」の様子がまるで目に浮かび、現在とのギャップに少々戸惑いを感じてしまう。
 今の日本は日常で爆撃される事も、弾が飛んでくる事も無い時代だからなおさら心痛を感じてしまう。(交戦状態では無いという意味。)

「戦陣の断章」著者ブログも好評なのでそちらも是非観ていただきたい!
http://www.blade-arts.net/
リンクページからどうぞ。
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by switch-blade | 2007-12-21 12:23 | Switch-Bladeの個人的な話 | Trackback | Comments(0)

 昭和20年8月15日 各地ではラジオから流れる放送に国中が涙した。
ノイズ交じりのこの放送は「玉音放送」と呼ばれている。これで戦争が終わり生活の苦しみから解放されると思った人もいたであろう。しかし皆が手放しで喜んでいた訳ではない。少なくとも日本の敗戦が知らされたのだから・・・

 少年の家族はこれで「とと」が帰ってくる!!と心待ちにしていた。
当時全国各地で同じように肉親の復員を心待ちにしていた光景が目に浮かぶ。
それから数年後、その地区の部隊が帰ってくるとの報告が入った。
少年や家族や近所の周囲の皆が自分達の父や肉親の帰還をまだかまだかと複雑な思いで待っていたという。

 そしていよいよその日がやってきた!!少年とその兄弟、そして大黒柱不在の家庭を守っていた妻の喜びと不安の入り混じる思いには胸が締め付けられるようだ。
 あの日、呉に向った「とと」呉から艦船でフィリピン(戦後に知る)へ向かった「とと」

「皆がいい子にしていれば、ととは帰ってくるよ!」

そう、子供達はしっかりと言いつけを守り、ととの帰りを待っていたのである。

「とと」を見送ったあの駅へのまっすぐな道。あの道から「とと」が帰ってくるんだ!!
少年と兄弟達、そして彼の妻は、今か今かとまっすぐなその道をじっと見つめていた・・・

「あ!!!帰って来たぞぉ!!!」近所の家族達も遠くから歩いてくる小さな人影を見つけて一斉に駆け出した!
知った顔が続々と帰ってきたのだ!なかには既に大喜びで抱き合う家族の姿もあった。

「ととは・・・」「ととはまだかな・・・」胸が締め付けられるような瞬間であった。

最後の兵が家族と抱き合い泣きながら抱き合っていた・・・

「ととは帰ってこないのかな・・・」「どうしたんだろう・・・」
その不安は想像を絶するものであったろう。胸が締め付けられるようだ。
幼い兄弟の目にはだんだんと涙がたまりにたまり、堪えに堪えた大粒の涙がどっと頬を流れ落ちた。
それを気丈に見守る少年と妻の元へなじみのある顔が近づいてきた・・・
その男性は「とと」の戦友で同じ艦に配属されていた人だった。

「どうにもできなかったんです・・・申し訳ありません・・・」

少年と家族は全てを察した・・・
皆、大声で泣いた。そして「とと」の戦友の帰還を泣きながら「心」から喜んだ。
彼の家と同じように肉親が帰らなかった家庭もそりゃあ沢山あった。
大勢の人達が泣いたり、喜んだり、笑ってみたり、抱き合ったり、悔しがったり、励ましあったりと・・・表現できる全ての感情が溢れていたに違いない。

そして「とと」の戦友は彼の最後の瞬間を目撃していた数少ない一人でもあった。
出撃2~3日前、マニラの居酒屋で最後の晩酌を交わしていた。同じ郷里で同じ艦、階級も同じ。
「お互いに生きて帰れないだろうな」「ともかくしっかりやらにゃならん」
といった会話が交わされ、互いに郷里の家族の事を話あったという。

最後の晩餐

そして出撃した。


続く・・・
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by Switch-Blade | 2007-08-15 14:11 | Switch-Bladeの個人的な話 | Trackback | Comments(0)

昭和18年某月のこと。一通の文書が役場の人から届けられた。
「ああ、とうとう俺にも来たか」
それは旧帝國海軍の予備役兵に届けられた召集令状である。(召集令状とは役所の人が直に持ってくる物で、郵便で運ばれるものでも、玄関に張られるものでもない事はご承知の通りですが念のため。)
明治、大正と海軍大佐だった家系の影響か、彼はハワイ、マレー沖海戦時以前既に徴兵検査と訓練を終え予備役となり家業に専念していた。その彼に届いた役場からの召集令状は悲痛なものととらえるか否か?それは当時を生きていなかった私にも想像することは難しくはない事だ。
詳細な文面はあえて記さないが「XX月XX日にXXに出頭せよ」とこのような文面である。

家族、親戚が集まり「親族会議」ともいうべきか「祝!出征」ともいうべき会合が行われた。
しかし大人と子供の現実に対する温度差は現代と同じく当たり前のように存在していた。
大人達はみな食料配給や物資不足から希望的観測はしていなかったのはいうまでもない。
それは夜に遠くの空がまるで昼間のように明るく、そして真っ赤に染まっていた現実から自ずと日本の現状を察していたのではないかと思う。
親戚、家族、近所の人々が沈痛な面持ちを隠しつつも「しっかりやってきてください」「無事に帰ってきてください」「お国のために」などという言葉が混じり合った複雑な気持ちだったのではないだろうか?

父の傍らにいた少年は言った。

「とと!!勝ってこいや!!」

父親は絶対的な存在であった当時としては、自分の父が勝ってくると思うのは当たり前な事だ。

そして彼は言った。

「ああ!勝ってくるとも!」

子供達が皆父親に抱きついてこう言った。

「とと、絶対に帰ってきてね。絶対にだよ」 泣きながらすがりつく子供達。

彼はまだ小さな娘を背中におぶり、あやしながらこう言った。

「お前達がよい子にしていれば、ととは必ず帰ってくるよ。だから皆よい子にしているんだよ。」

そして妻はこの光景を気丈に見守るしかない。小さな子供達と、自分が一生を共にしようを決めた日本男児。そしてお腹には小さな命を身ごもっていたのである。

彼は数日後呉に向かうために駅に向かい最後の別れを少年に言った。言葉数は少ない。

「行ってくるぞ。皆をしっかりと守るんだぞ。」

きりっとした制服に身を包み駅へと向う真っすぐな道を黙々と歩いていった。
彼にとって父の、結局それが最後となる訳だがその「顔」には一点の曇りもなかったと元少年は語る。
「何処までも続くような駅までのまっすぐな道。父の背中を、父が見えなくなるまでずっと見つめていました。今思えば腹を決めた人間の姿というものを見たと思います」
「あの時のまさに日本男児たる父の顔と背中は忘れる事はないでしょう。しかし当時を振り返ればそれは子供から見た視点にすぎず、残した家族に対する心配と不安は皆無であるはずはない。」と語っている。

※ 「とと」とは、当時の子供達が使う一般的な父親に対する愛称である。

続く
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by Switch-Blade | 2007-08-11 12:43 | Switch-Bladeの個人的な話 | Trackback | Comments(0)

今日偶然に・・・

 身内のつてでとある有名な寺院からある書籍を頂いた。(寺院名は秘密だ!)
昭和50年代にほんの数千部発行されたものである。(ここまで書けばタイトルはバレそうだが)それをこの私にと言われ手にしたときの興奮は隠せなかった。第一声「アー!!!こっ!これはぁぁぁ!!」つい興奮してしまった。それは帝國陸海軍全艦船の記録が網羅されておりとても分厚く重厚な書籍だった。
全艦船(タンカー、輸送船、海防艦、潜水艦、小型艦も含む)の活動記録、最終記録、そして最後の緯度経度までもが記されていた。この中に私の祖父そして親戚達の艦船を見つけることは難しい事ではないであろう。 戦陣の断章でも記されている艦名もいとも簡単に見つけることが出来た。これは私に新しい知識を吹き込んでくれる悲しくも切ない書籍である。

 仕事柄こうした機会に恵まれる事が多々あるわけだが、全ては無理だとしてもできるだけ多くの場所を訪れたい。それは日本に関係した土地に限ったわけではなく世界全体での話。
そう、あの当時は国民皆が苦労をして一生懸命に働き、戦い、銃後を守っていた時代である。今のように個人を優先に出来る時代ではなかった。国家と国家の鬩ぎ合い、騙しあい、よってたかって小国に難癖をつけ利権を奪うという中世さながらの出来事が当時はごく当たり前の事で、それは現在でも続いている事実を私は勝手に調査し研究し続けたいと改めて感じた次第である。

 by Switch-Blade
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by Switch-Blade | 2007-07-05 22:35 | Switch-Bladeの個人的な話 | Trackback | Comments(0)