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 気が付いたらもう朝だ・・・夜更かしも程々に・・・
少年XXX兵という兵種が(兵種でよいか?)多く存在した事は、
著者からのメールで改めて思い知った。
彼らは私よりも遥かに若い!しかし私の方が遥かに幼いのではないだろうか?

私は私よりも若い、私の祖父の世代に感謝する。

「外伝」の趣旨とは、少々ズレでしまったようだが、

今宵、これら画像で一献。


     by Switch-Blade
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by Switch-Blade | 2005-11-26 06:08 | 第七十一話~第八十話 | Trackback | Comments(0)

 先日、ふとした思いつきで先輩?友人?と「若獅子神社」へ行った。
そして、戦陣の断章の著者様から「戦車に係わる感慨」を頂きました。
私はミリオタって訳ではないのだが、幼少時に(小1位か?)初めて手にした、
坂井三郎氏著、「大空のサムライ」を読んでからというもの、陸海空と読み漁った。
頭に入っているかは疑わしい・・・日米英中韓仏蘭印等々・・・
最近ごっちゃごちゃなHDを整理していると、懐かしい画像やファイルが出てきた。
コノ画像は古いコンパクトデジカメで撮影したものだが、
今思えば何故にコンデジなの?である。
とはいえ、お見せできるぎりぎりの画像をUPしようと思いました。

ちなみに、当ブログの全画像は個人鑑賞以外の転載、
商用目的での利用は一切禁止しております。
どこかに画像をUPしたい場合については、「当サイト名を表記して下さい」
「じゃあネットでUPなんかするな」と言わずに、守って頂けると本当に助かります。
それでは4枚ほど。名称等に誤記がありましたら、お許しくださいませ。

203mm自走榴弾砲
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74式戦車
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89式装甲戦闘車
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96式装輪装甲車
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 いやあたまたま良席チケットを頂いて、「感謝感激の一日だったなぁ」と、
今でも鮮明に憶えております。しかし、楽しんでいる自分の頭の片隅で、

「楽しんでいる馬鹿があるか!浮かれてないでしゃんとしろ!」と言っている、

もう一人の自分がおりました。

                                by Switch-Blade
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by Switch-Blade | 2005-11-25 18:51 | 第七十一話~第八十話 | Trackback | Comments(0)

どこの国の戦車も同様、装甲の厚さ、砲の口径、貼視孔の巾etc.には苦心するようです。
鉄の固まりのような戦車は戦場によっては大いに威力を発揮するでしょうから。
しかし、「マーカス岬の戦闘」に見られるように、何台向かって来ようと
先ず随伴歩兵を混乱させて戦車を盲目同様になった状態にしてしまえば、
一方で対戦車、一方で対随伴歩兵と手分けをして攻撃出来、
味方の被害も僅少で済みます。これが幸い功を奏したのです。
どこにも通用する戦法とは思いませんが(^^)。

戦車はずう体がでかいから有利とは限りません。要は地勢に応じた用兵如何でしょう。

私が久留米の士官学校在校中、歩兵、戦車、飛行機による
合同演習をやった時のことが思い出されます。

戦車兵は将兵皆小柄でした。さもあらんと思います。
この時、戦車連隊の将校から「戦車の弱点」を教わりました。
これが私の「マーカス岬の戦闘」で活かされたのかも知れませんね。
   
当時、久留米の戦車連隊に西住戦車長が乗っていた戦車が展示してありました。
西住小次郎中尉が日中戦争の徐州会戦で乗っていたものです。車体中無数の弾痕があり、
弾痕には白ペンキで円く囲ってありました。
彼は、この功績で大尉に特別昇進したのです。 
この伝記は、1940年松竹映画で上原謙が西住隊長役で映画化されました。
あの図体の大きくて重い戦車は、戦場への輸送も大変だったろうと思います。

  終戦時、ラバウルの港湾に砲を外したわが戦車が

  ずらりと並んでいた風景には涙がでました。

私の旧制中学時代の旧友で士官候補生出のU君が
中国戦線で戦車隊長をやっていました。
八路軍との戦闘中、生憎敵弾が貼視孔に命中し
敵弾が脳に達し、名誉の戦死を遂げました。

戦場でも「運」が着き纏うものです。私の経験もいくつか紹介したとおりです。

多分貴君の親戚の軍隊経験者にもあったことと思いますが・・・。
戦車の所属が判りました。少年戦車兵だったとは・・
あの時代には15~6歳の「少年OO兵」が随分誕生しました。
今では考えられない憧れがあったのでしょうね。
可哀想というか悲壮感というか。今になって振り返ると複雑な思いがしますね

以上戦車に係わる感概を送りました。

戦車と対峙し擲弾筒を有効利用偶然ではなく、著者が合同演習時に戦車聯隊の
将校に戦車の弱点を教わった事がマーカス岬の戦いに生かされたのだなと感じました。    以上、著者から頂いた戦車に係わる感概を掲載致しました。


                       by Switch-blade
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by Switch-Blade | 2005-11-04 22:08 | 第七十一話~第八十話 | Trackback | Comments(2)

七十五話では、戦史叢書などから引用しましたが、
実は戦史叢書にも記されていない事実があります。

【著者曰く】
「無事大任を果たして本隊に復帰した」とありますが、
ウラモアに残置された稲木中尉は任務中大変な目に遭遇しました。
無事どころではりません。情報機関として勤務中の夜中に敵性土人に急襲されました。
不意打ちを食らったのです。彼は素手で立ち向かいましたが、
右手を蕃刀で切りつけられて重症を負いました。
任務を終え本隊に帰還してから手術を受けましたが結局右手を失いました。
今は故人になりましたが、戦友会には左手ぶらぶらでよく出てこられました。
1期上(新谷中尉と同期)ですが、私は彼に可愛がってもらいました。
新谷さんはまだ元気ですが難聴のため今では会話は出来ませんが、
漢詩の詩人で手紙はくれます。


私同様マーカス岬での生き残り組です。

戦後亡き藤山君と三人で福山連隊跡で会ったことがあります。

<上記コメントを頂きました。
まだまだ叢書には記されていない事が沢山あると思います。
復員後、戦友会などで交わされた会話の内容にとても興味があります。
それらを一つでも多く記すことが出来ればと考えております>
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by Switch-Blade | 2005-10-09 01:19 | 第七十一話~第八十話 | Trackback | Comments(2)

 一ヶ月以上も外伝の更新をSTOPしておりましたが、改めてスタート致します。
実は現在、84歳の戦陣の断章の総纏めとして、新サイトを製作中です。
内容は、ニューブリテン島での記録、戦陣の断章とマーカス岬の戦闘を網羅し、
当時の秘蔵画像などをご紹介できればと考えております。
資料としての正確さをモットーに、戦史叢書、公刊戦史、数々の市販図書、
そして当時を知る方々の証言を照らし合わせて、纏め上げようという物です。
終戦後の作業の様子や、各集団のお話、そして、このブログがきっかけで
情報交換をはじめた方々の、お話も随時追加していく予定です。
完成後にこちらでもご紹介致しますので、気長にお待ち頂ければ幸いです。

 さて、タイトルの情報機関の残置ですが、
カ号作戦の発動に伴い、第八方面軍は第十七師団に対して、
敵中に孤立残存して情報を収集すべき小部隊の残置を命じました。
第十七師団長はこれに従い次の各部隊を配置し方面軍直轄としました。
記録に残っている部隊は
タ機関(ダンピール岬附近の山中)
歩兵第五十四聯隊の中川少尉以下十八名。
カ機関(ガブブ附近の山中、ロロ山)
歩兵第五十四聯隊の森田中尉以下十六名。
勇機関(ウラモア附近の山中)
歩兵第百四十一聯隊の稲木少尉以下十名。
これらの諸機関の任務は、敵艦隊、航空その他部隊の情報収集、報告の他
カ号作戦の援護の目的にあった。
三月の初めに設置し、さし当たって四ヶ月間の行動を目途として行動を開始、
各種の準備をした。タ機関については、当初予備役将校の吉尾少尉に
発令されたが、師団司令部の指示で陸士五十六期の中川少尉に変更となった。
 残置後、間もなく部隊との通信は途絶したが、タ機関からは五月二十日、
「われ突撃する」との通信を最後に状況は不明となり、
カ機関は五月上旬交戦中との通信を最後として報告してきたが、
二名が負傷の為に捕虜となり他は全滅した。
ウラモアの勇機関は下山の命令を受け任務を果たし無事本隊に復帰した。
戦史叢書によると、カ機関の捕虜は一名と記されている。

※引用抜粋
・戦史叢書 南太平洋陸軍作戦1~5
・戦陣の断章 同著 マーカス岬の戦闘
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by Switch-Blade | 2005-10-08 02:18 | 第七十一話~第八十話 | Trackback | Comments(2)

 ニューブリテン島に散らばる全部隊をすみやかにラバウルへ集結させる。
剛方参一第六九〇号、二月二十四日発電のこの作戦を「カ号作戦」という。
当時ラバウルには第十一航空艦隊と第二航空戦隊を合して、100機近い兵力があり、連日の空襲下に敢闘を続けていた。二月十七日、その移動可能の全兵力をすみやかに内洋方面に進出するよう命令されたので、主力は十八日から二十日の間に、残る若干もその後これに続いて逐次トラック、マリアナ方面に転進し、ここにラバウル周辺の航空戦況は一変することとなる。このことから航空べた居の転進に伴い、ラバウル周辺の制空、制海権は一挙に完全に連合軍側のものとなった。十九日~二十五日にかけて、陸海軍輸送船四隻が相次いで沈没した。これがラバウルに対する最後の輸送船であった。一月末ににグリーン島(ニューアイルランド島とブーゲンビル島の中間)に威力偵察を試みた後、二月十五日には再度同島に来攻してこれを占領し、飛行場の設定に着手。同時期二月上中旬の間、連合軍はラバウルに対して引き続き大規模な空襲を継続。ニューギニア方面ソロモン方面に対しても依然激しい航空攻撃を繰り返し、ブカ、アドミラルチーニューアイルランド、及びニューブリテン島北岸諸要地等ラバウルを囲む諸地域の来週も逐次増加していった。この時期、陸軍の第四航空軍の戦力増強を要請するため、航空軍参謀長秋山少将が上京。参謀本部で諸般の説明を行った結果、第十八軍のマダン付近の作戦に対しては第二方面軍指揮下の、戦闘、軽爆各二個戦隊、重爆一個戦隊が一時南東方面に進出してこれを支援することになったのだが、第四航空軍自体の戦力の造成については襲撃一個戦隊が、新鋭の軽爆一個戦隊と交代する件が決定されただけで特に大きな処置は実現しなかった。このような新情勢を迎えて、方面軍は再び爾後の第十七師団の用法について検討する段階になった。今や、ラバウル周辺の海上輸送は小舟艇を除いて全部途絶し、爾後の補給は駆逐艦、潜水艦は勿論、大発輸送さえも困難である、と考えなければならない事態であった。検討の結果、方面軍は第十七師団のラバウル後退を決定したのである。方面軍命令から抜粋した文だが、マーカス戦闘部隊に対して、再度御嘉賞の御言葉を拝せる小森支隊はあくまで現地に於いて必死敢闘武人の栄光を完うせしむる意図なりしも以上の情勢に即し全般指導上転進せしむることに決せりとある。(前後省略)  続く・・・

                        by Switch-Blade


※引用抜粋
・戦史叢書 南太平洋陸軍作戦1~5
・「戦陣の断章」 同著「マーカス岬の戦闘」
        

        

             
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by Switch-Blade | 2005-09-02 17:02 | 第七十一話~第八十話 | Trackback(1) | Comments(0)

 旧制師範学校を卒業し、当時の国民学校(今の小学校)に赴任した時の事です。
校長先生に伴われて村の有力者の家にあいさつ回りをしました。
最初の訪問先の助役は
「宜しくお願いしますと言われたって、
何処の馬の骨か分かんない人の面倒なんかみられるかい!!」
と、
厳しいお言葉でした。卒業前に先生から、
「はじめから地元の学校に勤めるのはよせ。
甘えさせられてろくな教師になれないぞ!かわいい子には旅をさせよと言うだろう」

と諭されました。
これまで大変な時には「馬の骨」を思い出し、何とか頑張れたのではないかと思います。
 家を離れて就職とか入学された皆さん。現在は辛くとも、
やがて楽しくなるように頑張ってください。

<これは、今年5月に毎日新聞に掲載された、戦陣の断章著者の奥様のコメントです。
毎日何千名という投稿の中から選ばれたということは、昔の小学校の先生は、
今とは違い地域の名士からも厳しい目で見られており、
生半可な気持ちでは勤まらなかった」という事を知らせたかったという編集者の
考えからだと思います。「でもしか先生」では勤まらなかったのでしょうね。
今日は国民学校の先生として銃後を守っていらした奥様のお話でした。
                         by Switch-Blade >
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by Switch-Blade | 2005-09-01 00:49 | 第七十一話~第八十話 | Trackback | Comments(0)

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巷では相変わらず、靖国参拝についての議論が飛び交っておりますが、
そんなことはどこ吹く風!「靖国で逢おう」、「あとは頼む」という言葉を残し戦死された
自分の祖父、親戚を含む全ての英霊に対し祈りを捧げてまいりました。
例年に比べて参拝者の数がとても多くなってきているという印象を受けました。
どうであれ国の為、家族の為に命を懸けて戦った方々に対し礼を尽くすのは
当然の事であると自分は考えます。
それすら放棄し「日本は軍国主義に向かっている」と言われると失笑してしまいます。
by Switch-Blade
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by Switch-Blade | 2005-08-15 19:55 | 第七十一話~第八十話 | Trackback | Comments(0)

昭和21年5月17日 復員完結。
各主要都市の被害地図の中に宇都宮の地図を発見。
宇都宮の両親はおそらく実家のある広島(県北部の田舎)に
疎開しているだろうと早飲み込み。
上陸港名古屋の復員局で手続きを済ませ、大荷物を背負ってやっこらさ広島駅へ。
駅を降りるや・・目の前に現れた原爆の惨状
駅あたりから海が見えたのです
瓦礫の山、ぶら下がった電車、電柱の架線。
「これだな!!」と初めて原爆被害の現実を目の当たりにしてゾッとしました。
 
私の親戚にも原爆被害者が数人おります。
そのうちの一件は、息子さん(海軍兵学校卒の少佐)が戦死、奥さんと娘さんが丁度広島へ
用足しに行っていて原爆で亡くなりました。
もう一件は、現存されていますが、原爆投下時に広島方面に行っており被爆しました。
原爆被爆手帳を持っており、現時80歳くらいかと思います。
女学生の頃だったのですが、軽症だったのでしょう。
現在は、原爆被害証明には3人の証人が必要とのことです。

 原爆が投下された日から9日後の8月15日 
全将兵が、よく聞き取れない無線電波で終戦の玉音放送を聞く。
よく意味が判らず翌16日初めて細部を理解。さあそれからが大変でした。
無念の気持ちを押さえながら部下に対し軽率な行動を慎むよう説得です。
自分でさえ自決したいような気持ちでしたから深刻でした。
ましてこれまで負けたという実感を知らない私には信じ難い屈辱だったのです。

今、戦後60年といいますが、

私には区切りはありません。

戦中戦後の苦しみを知らない為政者が大部分を占める今日。
いかにも知ったかぶりをしている政治家も、こういう機会に何回でも遊就館、
知覧などの記念館を見て欲しいと思うのです。
いまは自分の選挙のことで頭は一杯でしょうね。       

終戦60周年にあたり、おおいに原爆の恐ろしさを伝えたいものです。
アメリカでは、「あの当時原爆を使わなければ日本は降伏しなかったからだ」
と正当化しようとしているようですが、とんでもない屁理屈です。
目下報道されている原爆被害者のむごたらしい姿を見れば、
原爆を持つこと自体ためらうのが通常の人間の神経ではないでしょうか。

私も、過去を振り返り、今あることを噛み締めています。
 

 <著者からのメールをご紹介致しました。
後世に伝えるためには、色々な話を聞かなくてはなりません。
この国を守るために命を懸けて戦った方々、そして銃後を守り原爆や
空襲の犠牲になった方々の思いを伝えなくてはなりません。
皆さんの周りにも当時を知っているご親戚や知人が沢山いると思います。
どうか戦争体験者の方々の言葉に耳を傾けてください。
そして、後世に語り継いで欲しいと思います。
                     by Switch-Blade>


                               
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by Switch-Blade | 2005-08-06 14:48 | 第七十一話~第八十話 | Trackback(1) | Comments(0)